二つのすばらしい記事 ~えんぴつけずりは手回しで~
私が素晴らしい記事として挙げたいのは、窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず(4月27日)、えんぴつけずりは手回しで~間の必要性~(4月24日)の二つです。 なぜでしょうか。それは、いずれも「個人への問題提起」であると同時に、歴史としての現代の転換にむけて「私たちが考えるべき大切なこと」を、すべての読者に投げかけた素晴らしく説得力のある内容だ、と感じたからです。 まず、4月27日の記事ですが、その中には「大震災への政府の対応」、「授業でよく見かける問題」、「掃除を例にした指導の具体的なあり方」等々、この間の「意見交換や発信姿勢」の問題点や、ルール指導等をめぐる論点の整理が実にていねいになされていました。 そして、「窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず」という格言を本来の意味で実践していくことの重要性など、イール夫さんからkurazohさんへの心をこめた呼びかけを読み取ったのは私だけではないでしょう。 さらに、そのメッセージは「個人への呼びかけ」を超えた意味を持つと考えられます。 身近な例を挙げれば、「うまくいかないことに困って悩んだ末、“教育者”が自ら変わったときにはじめて通じる」という体験・・・、子育てにおいても公教育においても、多くの人が体験することでしょう。 このような発想こそ、「現代において私たちが共有すべき大切なものではないか!」 腑に落ちるというのでしょうか、本当に深く納得させられます。しかしながら、このような豊かな示唆にとんだ 「格言」というのは、人を批判することではなく「自己省察や自己変革」につなげてこそ、大きな意味を持つ と考えるのです。 この記事で、具体的な問題提起を受けたkurazohさんの反応を極めて残念だと感じたのは、イール夫さんだけでなく、私も同様でした。結局は、格言を「自己省察や自己変革に活かす」のではなく、「他者を批判する手段にする」という発想から抜け出せていないからです。 例えば、100ページの一文のなかで、kurazohさんのよく使われる「ミラー現象」という言葉、わたしは「他者の中に見える様々な問題点というのが、実は鏡のように自らの問題点を映し出している」といった理解をしていますが、これは「自らに当てはめて自己省察に活かすかぎりにおいては極めて有効・重要な発想である」と考えます。(これに似通った発想は、聖書にもみられるようです。) 自らに適用するからこそ、気づきと学びがある。ところが、kurazohさんがこの思想を自らに適用し、自己省察に活かしたケースというのは(少なくともブログコミュニケーションのなかで)私の記憶にはありません。「ほらっ ミラー現象ですよ」といって他者を批判する場面は、いくつも数え上げることができますが・・・。〔「ミラー現象」を自らに適用し、自己省察に活かしていらっしゃったのは、吟遊詩人さんのほうでした。〕 確かに、これは決して特定個人の問題ではなく、 「誰かを批判するとき」に私たち自身が常に問いかけるべき重要な点ではないかと思います。相手に向けてさしむけている批判の内容が実は自らにも当てはまるのではないか、特定の(あるいは不特定の)他者を批判しつつ、「自分だけはちゃっかりと“批判の対象からはずす”」という自己正当化や自己欺瞞に陥っていないか…。 このような問いかけを忘れないこと、それこそが、(ネット上の)大人同士のコミュニケーションを、子どもから見ても「民主的な議論」のお手本になるような健全で建設的なものにしていく大切な鍵だ、と言えるのではないでしょうか。 以上、「窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず」に関わって私見を述べてきましたが、その直前に書かれた「えんぴつけずりは手回しで~間の必要性~」も、市民社会における議論を創造していく上で極めて重要な問題提起を含んでいると考えます。 長くなりましたので、それについては次の記事に回したいと思います。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)