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2009.05.01
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カテゴリ:なぜなにすっぱん
今回は私の考える宗教というものに関して。

おおよそ我々の考える宗教とは我々崇拝者(信仰者)が対象となる超越的存在であったり

象徴的物質 / 現象或いは神といったものに対し”信仰”と言う名の行動を起こすもの。

この宗教、そもそも何を目的とし、何のために生まれたのであろうか。

崇拝者は対象を崇拝する事、信仰する事によって求める”何か”を得ようとするのであるが

何故、崇拝対象に求めるのであろうか。答えは至って単純である。

自身では求めても得られないものを与えるのが超越的存在や神、自然現象などといった

総じて人の位を超えた科学などでは説明不可能な”よくわからない”ものだからである。

“よくわからない”理由として宗教はあくまで人の創り出したものだからである。

教義や聖典などによって創始者は神の啓示を受けたなどといったものはよく見受けられる。

それでもあくまで始まりは人間であってそれを信仰したりするのも人間であるのだ。






















さて、では人の創ったものである宗教というものは愚物と成り果てるのであろうか?

答えは否である、そもそも人からすれば求めている”何か”が与えられるのであれば

原初が人の生み出したものであろうがなかろうが関係はない、人間とはそういうものだ。

故に今の時代、様々な宗教があり、それぞれがそれを自由に信仰しているのである。

しかし考えてもみて頂きたい。仮に求めている”何か”が食べ物だったとしよう。

信じる教えに従い、心から信仰していたとしよう、それに対して”応え”はあるのだろうか。

ないと断言して良いだろう、それではまるで空からパンが降り注ぐような

絵空事が起こり得てしまうではないか。だが現実にはそんな事は起こってはいない。

信仰者にとってはそういった形で”応え”が与えられるのではないと

反論するものもいるだろうがそもそも信仰対象が”よくわからない”ものであるのだから

何が起こっても不思議ではないのであって

ソレを理解するのは真理を得るに等しい至極難しい事なのである。
























だが、逆に考えると求めたものに対して”応え”がないのであれば

この「宗教」というものを信仰する者、いやそもそも宗教自体が

不要のものとなっているはずではないだろうか。

では前述した別の形によって”応え”は与えられているのだろうか?

その答えとしてとして二点、思いつく事がある。






















第一に「その人、個人の努力によって得られる”求めたもの”の”応え”という場合」

世界はまるで迷路のようなものである。

人はその世界という迷路の中で生まれ、迷い、日々を過ごしていく。

迷路の中にいるのだから自然、迷うのも日常茶飯事となってくる。

その迷路から抜け出る助け、所謂「地図」になるものこそ「宗教」なのではないかと私は考える。

宗教を求めるのはその迷路を抜け出る為の”何か”が足りないからこそであって

その迷う人間にとって一種の地図(指針)となって道を示すのである。

宗教そのものに与えられるのではなくて、宗教という助けによって自らが勝ち取る”応え”

あくまでその人個人の努力によって成し得たものであるので別の形となり得る。

故に迷路に迷い込んでいない人間には地図など必要ないし

迷っても地図そのものの存在を知らない者には縁の無い話になっていくのである。

これこそが今日の信仰する者としないものとがいる理由の一つになるのではないだろうか。






























第二に「”よくわからないもの”によって”応え”を示し受け取るという場合」

宗教には度々”死後の世界”といったものが描かれる。崇拝対象とはまた別に人間にとっては

「死」というものは”よくわからないもの”に該当しそれの理解は不可能である。

人は死というものが理解出来ないからこそ二次的な娯楽として本や映像などと通じて

擬似的に死を体験する、むしろしたがるといってもいいかもしれない。

加えて死は事前に経験出来るものでもないから理解は不可能という結論に至る。

さて、話を戻すがつまりは現世、生きている間に信仰者として相応しい形で

一生を終えれば死後には幸福が待っている(応え)というものである。

また、宗教によっては人間とは死と再生の輪廻の鎖に縛られているといったものもあるが

それでも生前の種々のカルマ(業)によって来世の幸・不幸が決まるといったものだ。

言うなれば信仰者が死後、幸福な世界に行けたのかは死を経験したり生き返ったりは

出来ないが故にわからないまま、自分で実際に経験してみるしか確かめる方法はないのだ。


















また、宗教がなくなったりしない理由は他にもまだまだ存在する。

過去の歴史を振り返っても容易に理解が出来る。何せ古代にすら存在し

宗教戦争などと呼ばれる形で戦争となり、王権よりも権威を持つ事もあった。

必ずしも宗教が人に良い影響を与えるものではないというのがそれらからも理解が可能だ。

方向性を間違えた熱心な信者というのは時に英雄的精神(ヒロイズム)に溺れ過ちを犯す。

また過ちという点で、自然のままである人間(例としては神の啓示などを受けていない)が

時として創始者の立場になる。

これが一般的に言う反社会的な意味におけるカルト宗教、邪教などに当てはまるのかと考える。




















では、この良い影響、悪い影響を与える宗教は具体的にどういった影響があるのだろうか?

私は基本的に肉体的救いを求めるものではないと考える。

例えばキリストが目の見えない者の目を治しただとか

自ら体を傷付け、それが救いとなるなどといった宗教もあるのは事実ではあるものの

やはり精神的救いを求めるものが多い。

無論、両者は無関係ではなく

人間を心と体との相互作用としての精神活動と規定して考えてみた場合

精神と肉体はひとつの単なる関係それ以上ではなく

第三として精神は自己であるのが重要かと思うが

宗教に限らずとも自己(精神)との関わりを捨ててはいけない。

それを捨て人間とは何か、人は如何様に生きるべきかを問うのは無意味であり、

自己自身を意識し実存的立場に立つ事も大切ではないかと同時に私は思う。

かのソクラテスも魂のよさが重要とした、

この魂とは自己(精神)に当たると私は考えているのがどれ程の富や名声があろうとも

それを正しく用いる魂のよさがなければ有害なものと成り果てる。

では”魂のよさ”とは一体何なのだろうか。

そしてそこでは再び宗教(地図)が理解(脱出)の助けになるのではないだろうか。

そもそも宗教とは救いを与えるものでそれが現世か来世か、死後かで様々なだけであって

わざわざ自らが不幸となるのを目的とした宗教などないだろう。

何せ宗教とは迷路の中の地図であってそれは間違いなく”縋るもの”であるからだ。




















人は何故縋らなければならないのだろうか。

それは自らの救いがどのようにすれば与えられるのかということに対して無知だからである。

だからこそ、その縋るものの一つである宗教の信仰対象は

超越的存在であったり神であったりとそれこそ"よくわからないもの"になるのである。

言い方は悪いがよくわからないけどあれを崇めていれば自分は救われるのだと思い込まされる。

だがそれでは実際、宗教を信仰する意味というものを失う。

なぜならば縋るだけならば宗教でなくても他のものなどいくらでも存在するからである。

それらとは一線を超えたアンチテーゼが宗教の役割、立ち位置なのではないだろうか。





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Last updated  2009.05.22 17:35:04


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