アーサー・ビナードさん:広島、早乙女勝元さん
アーサー・ビナードさんのラジオ番組「アーサー・ビナード ラジオ ぽこりぽこり」が2022年4月からスタート(文化放送 土曜日18:00)。「れこらじ」で録音している。●6/11放送分はラジコで聞けます。https://radiko.jp/#!/ts/QRR/20220611180000●ぜひ、お読みください。新英研関東ブロック集会2003年1月5日(日)東京代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターにて行われた、映画『軍隊をすてた国』(早乙女勝元さんのお嬢さんの早乙女愛さんがプロデュース)上映と「軍隊を捨てた国 コスタリカ」と題した児玉房子さん(ガラス絵作家)の講演。https://plaza.rakuten.co.jp/shineikenkngw/4011/1)6/4放送 オープニングは1954年の平和島(モーターレース場)の話から1954年3月1日の第五福竜丸の被爆につなげ、原子力の平和利用(という平和キャンペーン)に話をつなげた。見事な連鎖。東京・池袋と広島に住んでいるアーサーさん。関西のメディアに出るときは「広島在住」と書かれることが多いとのこと。「原爆使用は正しかった」という教育をアメリカで受けていたアーサーさんであったが、広島で被爆体験をある女性から聞いて「ピカ」「ピカドン」という言葉を知り、自分の「歴史」がひっくり返り、「原爆使用は必要なかった」とわかり、歴史が歪曲されていることを知った(そして誰が歪曲したのかという疑問を持つようにもなった)。ベン・シャーンの絵を使った第五福竜丸の絵本『ここが家だ』を作った後に絵本『さがしています』を作ることになった。原爆体験を聞けるのは生き残った人の「特殊な体験」であり、多くの「普通の体験」は亡くなっている人から聞けないとアーサーさんは気づき、「普通の体験」を知るために普通の人が遺した「物」と対話することにした。そのため、11年前に広島のドームのそばに住むことにした(原爆の後に遺された鉄瓶のあった場所にある建物)。絵本『さがしています』のラストでは、原爆に焼かれた人の影が残る「広島の銀行の石段」の代弁をアーサーさんがしている。広島のラジオ局のアナウンサーの方が話されたアーサーさんのエピソード。小学生たちに「目玉焼き」という言葉をつける日本語のセンスは不思議だよねと問いかけていたことだそう。「当たり前」と思っている言葉に「不思議」を発見するアーサーさんの視点がわかるエピソードだ。1994年に奥様に出会い、奥様のご実家が埼玉県東松山にあり、丸木美術館に行き、「原爆の図」に出会うことになった。そこから広島につながっていったとアーサーさんは必然性があったと振り返っていた。コンサートで錦織健さんが歌った、アーサーさん作詞「ひろしまへ」を朗読。●参考:川に宿るヒロシマの思い 被爆70年に向け取り組み(2014年6月28日 中國新聞朝刊掲載)https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=32588※アーサーさんが谷本清平和賞を受賞されたことを知った。おめでとうございます。谷本清平和賞のこと、初めて知ったが、歴代の受賞者を見ると大切な賞だと言うことがわかる。谷本清平和賞(Wikipediaから抜粋)第3回 1990年 栗原貞子(詩人・原爆詩「生ましめんかな」の作者)第14回 2002年 中沢啓治(漫画家・「はだしのゲン」の作者)第15回 2003年 吉永小百合(女優・原爆詩朗読者)第17回 2005年 新藤兼人(映画監督)第26回 2014年 サーロー節子(被爆体験証言者、カナダ・トロント市在住)第27回 2015年 秋葉忠利(元広島市長)第32回 2020年 アーサー・ビナード(詩人)第33回 2021年 川崎哲(ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)国際運営委員)※私事ですが、私が広島の被爆について初めて聞いたのは、高校時代の担任の先生(男性)からでした。お母さん・叔母さん・おばあさんの3人が広島で被爆されており、全員助かったという奇跡的なお話でした。爆心地に一番近かったのは広島の銀行で勤めていた叔母さんで8時15分に地下金庫にいて助かったとのこと(奇跡過ぎる…)。そして200メートル圏内にいたお母さんはその日は風邪で寝ており、8時15分に爆風で2階の大家さんは吹き飛ばされて爆死、1階のお母さん部屋を爆風が通り抜け、掃き掃除していたおばあさんはタンスの下敷きになったが助かり、2人で山に逃げたそう。原爆症で苦しまれた時期もあったそうですが、お元気で過ごされ、3人とも高齢で亡くなられました。もう一つ、講師時代に聞いたのは、英語の先生(女性)のお父さんのお話です。広島大学の先生をしていたお父さん。8/6の数日前に市内から市外に家族で引っ越ししていた。8/6は家に残してあったお母さんのピアノを広島大学の学生たち数人(夏休みで寮にいた)に引っ越し先に運ぶように頼んでいた。その朝、お父さんは路面電車に乗るために家を出ようとしたが、ぐずぐずしてしまい、乗り損なってしまったので怒りながら家に戻ってきたそうです。そして乗ろうと思っていたその路面電車が(資料集などの写真にある)被爆した電車だったそうです。お父さんはその後、学生たちが心配だったので、市内に入り(二次被爆されたそう)、学生を探したら、なんと全員寝坊して来ていなかったので、死なずに済んだそうです。このような奇跡的な話を2つも聞いてしまったので、人生の不思議を思わざるを得ないのですが、アーサーさんの言われるように、多くの亡くなられた人々の「普通の体験」は埋もれてしまうので、詩人であるアーサーさんを通じて、私たちは耳を傾けていく必要があると感じています。2)6/11放送 5月10日に亡くなられた早乙女勝元さん(享年90)のご葬儀でアーサーさんが弔辞を読まれたので、その様子を放送していた。早乙女勝元さんは山田洋次監督の映画「下町の太陽」の原案・企画をされたり、絵本『猫は生きている』(田島征三絵 1973年、理論社)を書かれたり、「東京大空襲・戦災資料センター」館長をされて東京大空襲を語り継いでこられた方である。アーサーさんが『猫は生きている』のことを言われたので、私にとっても忘れられない絵本だったので嬉しかった。小学生の頃、杉並区の児童館の図書室で読んだ『猫は生きている』『はだしのゲン』は私の心に深く残っている(杉並区の児童館が廃館の危機にあるとTwitterで知った。区長を変えて、存続してほしい!)。アーサーさんは早乙女さんを語る上で枕木のことははずせないと言う。早乙女さんは東武鉄道が枕木を捨ててコンクリートにしたときに600本(1本120円)買い取って家にした。デイヴィッド・ソローも枕木を愛していて『森と生活』に枕木のことを書いた詩があるということで、ご葬儀でその詩を朗読。ソローは枕木を労働者にたとえている。山田洋次監督に枕木はなんて言うのかと訊かれ、アーサーさんはsleeper, tieと伝えたのだそう(枕木をsleeper, tieというと初めて知りました)。最後にアーサーさんが早乙女さんのことを詠んだ一首「焼夷弾を語る男の目の奥に 燃えてる燃えてる あの一夜の火」を紹介された。東京大空襲を語り続けた早乙女さんの人生と思いを表現した素晴らしい一首だった。●気になる言葉のコーナーで「鐚一文(びたいちもん)」を取り上げた。「鐚(びた)」は粗悪な銭。東京大空襲で「銃後」が消えた。戦争に行くではなく、銃後に戦争が来た。戦後、軍人・軍属だけが50兆円の国家予算をもらってきたが、銃後の人々は「鐚一文もらっていない」と。