カテゴリ:古流ほか合気道など
通例として道場長の次の段位者が稽古初めの礼の号令をかけるのだが、過日、平日夜の稽古に参加した折、図らずも自分がその立場になった。
たまたま上段者が他に誰もいなかったのだ。 そんな日に限って自分が参加したことに意味を感じたりもする。 (リーダーシップを発揮せよ) という天啓か?と。 そして最近は後輩と稽古することが多くなった。 きっとそこにも意味がある。 「先輩から学ぶ」ことから、「後輩から学ぶ」ことへシフトする時なのか。 そこで最近感じるのは、「受け」による攻撃の間合いや呼吸、気配が様々であることだ。 「間合い」というものがまるで理解できていない人。 「呼吸」が丸裸な人。 「気配」に充実が感じられない人。 しかし、それらは指導できるものではない。 何年も稽古を継続する中で身につけていくしかない。 相手の攻撃をさばく。というのは、その気配が相手の中で沸々と漲り出してこそ成立するものだ。 「受け」である後輩の心身の微粒子が動き出すその気配に反応して、自分の身体の微粒子が動き出す。 その時点では両者の身体は微動もしていないけれど、すでに始まっている「刹那」というものが、上段者同士の間には存在する。 それはちょうど相撲の「立合い」にも似ている。 したがって反応できずにいる自分の身体が技をつかっているという、なんとも中途半端な感覚が続く。 さばく必要のない攻撃をさばいている滑稽さ。 自分を導いてくれた上段者方はこれをどう受け止めてきたのだろうか・・・とつくづく最近気になる。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年01月31日 20時50分02秒
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