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カテゴリ:観劇・映画関連話
(6月23日(月)の“その5”の続きです)
(文楽「鎌倉三代記」の第七段の最後、「高綱物語の段」の感想を中心に書いています) この「高綱物語の段」は、私が昨年の12月に観た歌舞伎の「鎌倉三代記」と大方お話の筋が一緒だったので、その内容が理解しやすかったです。 しかし、私の記憶に残っている範囲ではただ一箇所、今回の文楽では歌舞伎の話の中には無かった内容が含まれていました。 それが・・・ 三浦之助の母が、故意に時姫の槍に討たれる場面でした。 病の床に伏し、自分の命はもうそう長くはない、と、悟っていたとはいえ・・・ 自分の息子の“作戦”の成功の確率を上げ、家の血筋を残すためとはいえ・・・ これから“実父を討つ”という、傍から見れば非道な行為を犯そうとしている時姫に、少しでも“大義名分”を与えてやるためとはいえ・・・ 私にとって、この場面は、衝撃的でした。ただ、その一方で・・・ 皮肉なものですね・・・ 頑なに息子との面会を拒否していた三浦之助の母が、この行為によってやっと息子の前にその姿を現す事ができました。 表向きは、「敵に背を向けて家に戻ってきた息子を叱責するため」に面会を拒否していた訳ですが、本当は、「病に伏せり、息子のために何もしてやれない我が身を、どうして息子の前にさらす事ができようか・・・」そんな気持ちもあったのかなぁ、などと、私は考えてしまいました。 槍に討たれ、今まさに息を引き取ろうとしている三浦之助の母。 瀕死の重傷を負いながらも、この後で戦に戻り、壮絶な最期を遂げるであろう三浦之助。 鎌倉方の父・北条時政のもとへ戻り、恐らくは・・・ ・・・という結果になるであろう時姫。 各人が、愛する家族のために自分を犠牲にして相手に尽くそうとする・・・ 少し大袈裟にいえば、昔から日本人が生まれながらにして備えているはずの心を、私に改めて呼び覚ましてくれた、そんなシーンだったと思います。 こうやって“その場面”の事を書いていると、“その場面”がとても“残酷な場面”に思えてくる方もいらっしゃると思うのですが・・・ 『生身の人間ではなく、“人形”に演じさせるからこそ、そんな場面も表現できるのかなぁ』と、私は思いました。こういったところが、「文楽」の醍醐味のひとつなのかも知れませんね。 今回、そんな「文楽」という、日本が世界に誇る芸術に触れる機会が持てて、本当に良かったと思っています。今後「頻繁に」という訳にはいかないと思いますが・・・ また機会を見つけて、文楽を観に、劇場に足を運んでみたいと思っています。 <追伸> この日の公演では、「鎌倉三代記」の他にもうひとつ「増補大江山(戻り橋の段)」という演目も上演されました。あらすじは、平安中期、夜ごと京の都に現れて人をさらっていく、という“悪鬼”を退治するために、「渡辺綱」という武将が奮闘する、という内容です。 この演目では、登場人物(もちろん人形です)ごとにそのセリフを別の大夫が担当したり、伴奏も三味線だけではなく「八雲」という琴の一種の楽器が出てきたり、と、見どころ聴きどころ満載でした。 私が感じた一番の見どころは・・・ やはり、普通の“姫”から突然“悪鬼”に人形の顔が変化する場面だったと思います。あの人形の首(かしら)は、どういう仕組みになっているんでしょう・・・ こういったところも、文楽の醍醐味のひとつだと思います。 という訳で・・・ 約一週間ごとに連続6回、文楽の話にお付き合い下さり、ありがとうございました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.06.29 09:02:39
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