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テーマ:暮らしを楽しむ(388345)
カテゴリ:紫野学区
「紫野」の地名は京都北西部の地形から来ているようです。平安時代には、紫野付近の地域は、御所北西部にあって御所と距離的に近く、しかも洛外に当たるので、貴族の遊猟の土地でした。また、葬送の地でもありました。また近くには船岡山があり、「栄華物語」に1025年(万寿2年)に、三條天皇々后娘子を「雲林院ノ西院ノ戌(西北)」に於いて火葬したことがみえ、次いで1068年(冶暦4年)、後冷泉天皇を「船岡ノ西北ノ原」に火葬しました。この様な土地柄なのですが別な一面があり、貴族の別邸が紫野の地から西にかけて広がっていました。貴族の別邸がある最西部は嵐山付近で、そこから嵯峨野一帯から宇多野周辺まで広がっていました。今日の宇多野は、福王子の辺りを指していますが、かつては福王子・鳴滝・花園の辺を指していました。宇多野周辺は高台になっていて水捌けが良く、居住するのに適しています。この様に宇多野周辺から鷹峯に続く土地は、緩やかな傾斜地になっており、紫野はその傾斜地の先端部になります。紫野(ムラサキノ)は本来、宇多村(ムラ)の崎(サキ)にある野(ノ)である、と言うのが本義であると思われます。つまり村崎野が紫野に変化したのです。この地に紫色した野草(桔梗など)が自生していたかどうか分かりません。もしかすると貴族の遊猟の地であったため、高貴な色である紫の文字が当てられたのかもしれません。
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Last updated
2017.01.15 10:22:40
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