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2021.07.07
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カテゴリ:歴史
足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1395年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。
父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。
生涯
出生・将軍職相続
元中3年/至徳3年(1386年)2月12日、第3代将軍・足利義満の子として生まれる。異母兄に尊満とその同母弟の宝幢若公(早世)がいたが、義持は嫡男として扱われた。
応永元年(1394年)12月17日、義満より将軍職を譲られ、9歳で第4代将軍に就任する。同日、元服して正五位下左近衛中将に叙任した(元服奉行は万里小路嗣房、理髪役は日野重光、加冠役は義満、将軍宣下の上卿は日野資教、奉行は油小路隆信)。なお、義持の叙位に関して朝廷は当初、義満の先例に倣い従五位下に叙す考えであったが、義満が満足しなかったため詮議し直し、義満の権力の強大さを考慮して摂関家に準ずる位を与えた。ただし私的な足利家の家督はなおも義満の下にあり、政治の実権も全て義満に握られていた。
義満の存命中
父で大御所の足利義満
将軍就任後、義持の官職は急速に上昇し、応永2年(1395年)6月3日には従四位となる。応永3年(1396年)4月20日に正四位下に叙される(ただし義満は従三位を要望していた)。9月12日に参議、応永4年(1397年)1月5日に従三位(義満は正三位を要望)、3月29日に権中納言、応永5年(1398年)1月5日に正三位、応永7年(1400年)1月5日に従二位、応永8年(1401年)3月24日に権大納言、応永9年(1402年)1月6日に正二位、11月19日に従一位、応永13年(1406年)8月17日に右大将を兼務するなどした。この急速な昇進には公武に強い権力を保持していた父の強い意向があったためである。
ただし幼年の事もあり、将軍として公式の活動を開始したのは応永7年(1400年)1月11日の幕府評定始からである[注釈 3]。応永6年(1399年)以前にも御評定始が開かれ「御座」の記載はあるが、これは大御所となっていた義満の事であり、義持が公式の活動を始めたといっても形式的なものでしかなかった。また応永9年(1402年)から将軍として有力守護大名の屋敷に渡御し、寺社にも参詣するなどしている。
義持は父・義満と不仲であり、異母弟の義嗣が父に偏愛されていたとされている。応永13年(1406年)には父から譴責を受けて慌てふためき、日野重光の屋敷に逃げ込んで取り成しを依頼したという。
応永15年(1408年)5月、父が重病に陥ると、山科教冬を北山殿に派遣し、自らは寺院山門に祈祷を行なわせた。義満は5月6日に死去した。父の死後、室町幕府では足利将軍家の家督相続の問題が起こった。公的な将軍職自体は義持が継いでいたが、私的な足利家の家督は義満が保持していたためである。普通なら将軍職を継いでいる義持がそのまま家督も相続すべきだが、弟の義嗣が義満の偏愛を受け、さらに後小松天皇の北山殿行幸の際に元服以前にも関わらず異例の待遇を受け、さらに親王元服と同等となる内裏での元服もしていたため、義嗣は家督相続の有力候補として台頭していたのである。世間では義嗣が兄である将軍の義持を押し退けて義満の後継者になると見られていた。しかし義満は義嗣元服の2日後に病に倒れ、数日で危篤に陥ったため、後継者を遺言する時間は無かった。このため、斯波義将の主張によって家督相続者は義持に決定した。
治世初期
義持擁立に貢献した斯波義将
応永15年(1408年)5月9日、朝廷は義満の生前の地位を考慮して太上法皇(太上天皇)の尊号を与えようとした。しかし将軍の義持をはじめ、特に義満没後に政権を握った斯波義将の強い反対があり、拒否された。義満死後の6月25日に等持院にて義満の49日法会を済ませた義持は、6月26日に花の御所(室町第、京都市上京区)に住むが、翌年には祖父の2代将軍・足利義詮の住んでいた三条坊門邸(京都市中京区)へ移っている。また、義満が造成した政務中枢「北山第」は、義母・日野康子の死後、鹿苑寺(金閣)をのぞいて全て取り壊した。
当初の幕政は管領を務め宿老として影響力を持っていた斯波義将らに補佐され、幕政を守旧的なものに改める。これによって一度は失われた室町幕府の「武家政権」色を復活させようとしたと言われている。また、守旧的とされているものの実態については、義満が北山第を拠点とした応永6年(1399年)を画期とみなし、同年以前の施策(義満前期の政策)への復帰・準拠を意図していたとする見方もある[17]。続いて、義満が庇護していた世阿弥を遠ざけた。ただし、これは猿楽能よりも田楽を好んだ義持個人の単なる趣味の問題とする説もある。
義持は代替わりに伴い、8月中旬から積極的な所領政策を推進した。諸大名・諸寺などに対して積極的に所領安堵を行ない、独自の政策性をアピールしようとしている。なお、応永20年(1413年)までの5年間で義持が行なった所領安堵は他の将軍に比べると史料で判明している物だけでもかなり件数は多い。また、義持の花押は公家様のものしか伝わっておらず、後小松上皇の院別当を務め、更には九条家の法助を例外として代々皇族のみが任じられてきた仁和寺門跡に弟の法尊を入れるなど、義満とは異なる形での朝廷への影響力行使が行われていた。
義持は明との外交関係でも転換を図り、父の義満が明との間に開いた冊封関係を否定した。特に義満が「日本国王」に封じられた事は公家をはじめ、斯波義将や満済(醍醐寺の僧で幕政に深く関与)らからも批判が強かった。ただし当初からそうだったわけではなく、義満没後に義持はその訃報を明の永楽帝に報告しており、最初は冊封関係に入る事を了承していた。だが応永17年(1410年)5月7日に斯波義将が死去する。義将は義満の日本国王には批判的だったが貿易すなわち対外通交には積極的だった。その義将が死去したため、義持は態度を一変させて明の永楽帝の勅使が京都に入る事を許さず、兵庫から帰国させるに至る。そして応永18年(1411年)に明と国交を断絶し、冊封関係も消滅した。
治世中期
斯波義将の死後、管領だった義将の孫の斯波義淳は辞任し、後任には畠山満家が就任した。この頃から義持は独自の幕政を行なうようになる。
応永17年(1410年)11月には南朝最後の天皇だった後亀山上皇が吉野へ出奔する。これを機に雌伏していた各地の南朝系の勢力が蜂起し、応永18年(1411年)7月に飛騨国司の姉小路尹綱が反乱を起こして同国守護の佐々木高光に討たれた。応永22年(1415年)には河内で楠木氏が反乱を起こした。同年春には北畠満雅が称光天皇即位を不服とし、両統迭立の約束を守る事を要求する為に反乱を起こしたが、幕府とまもなく和解するなど、皇位継承問題は中央政界や幕政を不安定にさせる要因の1つになっていた。後亀山天皇は幕府の説得もあり、応永23年(1416年)秋に帰京している。
また、応永21年(1414年)6月8日に幕府内でも義持を長く支えた宿老・斯波義将の甥・斯波満種が義持の不興を買い、加賀守護職を召し上げられて高野山に隠退した事件も起こっている。加賀守護職は義持の側近・富樫満成に与えられた。同年の11月29日には細川宮内少輔が東大寺の所領を横領したとして義持の命令で自害させられている。
上杉禅秀の乱と義嗣の殺害
異母弟の足利義嗣
応永23年(1416年)10月、関東で上杉禅秀の乱が起こる。京都の幕府には10月13日夕刻にその注進がもたらされたが[注釈 5]、その時、義持は因幡堂に参篭中であった。そのため、因幡堂で諸大名を招集しての軍議が開かれ、幕府管轄地の駿河へ持氏を退かせる事などが決められた。
10月15日、7日に伊豆三島で上杉軍と持氏軍が合戦して、8日に持氏軍が敗れて持氏や憲基ら25人が切腹したという情報が幕府に伝わり、この日も北野経所(公文所坊)に参篭していた義持はその報告を管領の細川満元から受けて激怒したという。ただし20日にはこの情報が虚説とわかり、憲基だけが切腹したとされるなど、京都では関東の情報をつかみかねていたらしい。
10月28日になって持氏の駿河落ちと幕府軍救援を求める報告が入り、10月29日に義持は諸大名を招集して評定を開いた。この中で義持の叔父である足利満詮が持氏救援を声高に主張し、義持や諸大名もこの意見に同意して、義持は駿河守護の今川範政と越後守護の上杉房方に持氏支援を命じた。
ただ、禅秀の乱はあくまで東国に限定された合戦のため、幕府や義持の対応は後手に回っていた。ところが10月30日、足利義嗣が京都から出奔し、山城高雄に遁世するという事件が起こった。この突然の事件に、義持ら幕府首脳は大混乱の騒ぎになった。義持は11月2日に義嗣に対して細川満元と富樫満成を使者として派遣し、帰宅を促した。しかし義嗣は出家を望み、応じなかった(また出家したくても義持を恐れて剃り手がいなかったとも)。11月5日、義持は義嗣を仁和寺興徳庵に移し、身柄奪還の懸念から侍所別当の一色義貫(当時は義範)に警固させた。また義嗣の側近である山科教高と山科嗣教は富樫満成と富樫満春に預けられた。義嗣は11月9日に相国寺塔頭林光院に移され、教高ら側近4名は加賀へ流罪とされた[33]。義嗣の一連の行動に関しては「義持に自分の所領が少ないので加増を求めたが取り合ってもらえなかったためにこの事を恨んで野心を企てた」のが動機で、「当時鎌倉公方の持氏と対立していた上杉禅秀と連携して反逆するつもりだった」という。さらに義嗣に同調して斯波義教、細川満元、赤松義則らが挙兵する手はずであったと義嗣の側近が白状したため、幕府も禅秀の乱に大きく関与するようになった。
禅秀の乱は応永24年(1417年)に幕府の支援を得た持氏により鎮圧された。しかし鎮圧後の翌年にはこの余波から土岐持頼に義嗣に与力したとして所領数か所が召し上げられ、重臣の畠山満慶にもその嫌疑がかかり、他にも山名氏が出仕停止に追い込まれたりするなどした[35]。そして首謀者と目された義嗣は応永25年(1418年)1月24日に義持の密命を受けた富樫満成に殺害された[注釈 8]。この義嗣殺害からそれに関与したとされる諸大名の処罰は、義持と側近の富樫満成により主導されて行なわれ、管領はほとんど関与していなかった。一説には義持が有力守護の発言力を削いで義持の主導する幕政の確立を目指したものともいわれているが、このため富樫満成の権勢が高まり、また諸大名の反発も買うようになった[36]。しかし最終的には細川らの巻き返しを受け、応永26年(1419年)11月24日に義嗣の愛妾・林歌局と密通していた事などを告発されて失脚した。満成は高野山に逃れたものの、後に殺害された。
鎌倉府との対立
上杉禅秀の乱では協力した義持と持氏であったが、乱の終結後から対立に転じた。原因は持氏の戦後処理にあった。持氏は反乱軍に与した諸大名を許さずに徹底的に討伐した。禅秀の娘婿の岩松満純や武田信満らは持氏の追討を受けて処刑、自害に追い込まれた。他にも持氏は関東各地に軍を派遣して討伐したため、関東各国の諸大名は勿論、義持との間にも大きな溝が生まれた。信満の自害により甲斐守護職が空白になったため、持氏は新守護に逸見有直を任命したが、義持は認めずに信満の弟である武田信元を任命した。しかし信元の甲斐入国は逸見氏の抵抗で順調に進まず、信元が死去するという事態もあって甥の武田信重が守護に任命されるもこれも入国できず、在京のままという事態となる。常陸でも佐竹義憲(持氏方)と山入与義(幕府方)の守護職問題が起こり、義持は与義を守護に任命したが持氏はこの命令を無視し、さらに上杉憲直に命じて山入氏一族を殺害するに及んだ。これら持氏の戦後処理に不満を抱いた北関東の国人、特に小栗満重は反鎌倉府の動きを見せだした。そしてこれら反鎌倉府勢力の背後には義持の支援があった。
義持は持氏の強硬かつ苛烈な戦後処理に激怒し、応永30年(1423年)6月には幕府軍を武蔵に派兵する計画もあったという。持氏の戦後処理でまずかったのは京都扶持衆、すなわち関東は鎌倉府の管轄下ではあるが親幕府の山入氏や大掾氏、真壁氏などを討伐あるいは討伐しようとしたためである。義持は持氏に激怒・不信を抱き、細川満元や今川範政、一色義貫(義範)、赤松満祐、斯波義淳らを招集して対策に乗り出している。
対立は応永30年(1423年)7月に頂点に達し、今川範政や小笠原政康(信濃守護)、武蔵の国人、さらに篠川公方の足利満直や奥州探題の大崎氏に義持は持氏討伐のための命令を出した。この義持の強固な対応に持氏は追い詰められ、応永31年(1424年)2月に持氏は義持に起請文を送って謝罪並びに和睦を申し出た。しかし和睦の条件をめぐって両府は争い、特に常陸や甲斐守護職問題は火種となったが、最終的に両府は和睦した。
隠居と出家
応永30年(1423年)3月18日、義持は嫡子の義量に将軍職を譲った。将軍職譲渡後の4月25日に等持院で義持は出家した。義持の剃手は等持院院主で、この出家は秘密とされており、側近の満済すら知らなかったという。秘密にした理由は後小松天皇ら朝廷が反対するのを恐れたためだったとされ、出家直後は畠山満家、細川満元、山名時煕、赤松義則、大内盛見ら既に出家して法体であった大名しか面会を許されなかった。法号は道詮(どうせん)と号した。義持出家の理由は、俗世を離れて自由の身となり、かつての父・義満のように奔放な政治活動をするため、また深く信仰している禅の奥義を極めるためだった。隠居・出家後、義持は正室や義量らを伴いながら頻繁に寺社への参詣を繰り返した。また守護大名や側近、公家らの屋敷にも渡御した。なお、出家したとはいえ、幕政の実権は義持や有力守護が握っていた。
応永32年(1425年)2月27日、義量は19歳で急死する。義量には子が無く、義持にも他に男子が無かったため、室町幕府は将軍不在となり、前将軍である義持がそのまま幕政を統括する事になった。
晩年
義量没後の義持は実質的に将軍と見られており、実際に公方様・室町殿・御所様と呼称されていた[47]。また幕府だけでなく朝廷においても称光天皇の継承問題もあり、義持は自らだけでなく朝廷の問題にも対応を迫られていた。また幕府でも細川氏、畠山氏、上杉氏などの政争があるなど、表向きは平穏であるが様々な問題が芽生えだしていた。
守護大名の政争に関しては応永34年(1427年)に表面化した。この年の9月21日に幕府宿老で播磨守護であった赤松義則が70歳で死去し、嫡子の赤松満祐が跡を継いだ。この時、赤松家の所領は播磨・備前・美作の3か国であり、満祐は当然3か国の安堵を望んだが、10月26日に義持が出した命令は「播磨は料国(幕府直轄領)とし、一族の赤松持貞を代官に任命して預け置く」とした。満祐は命令を拒否し、酒宴を開いた後に家内にあった財宝を家臣らに分け与え、自分の邸宅には火をかけて播磨に下向した。義持は満祐の行為に激怒し、備前と美作も没収して赤松満弘(赤松光範の子)と赤松貞村に与える内示を与え、さらに山名氏や一色氏に対して赤松討伐を命じるまでになった。しかし管領の畠山満家は討伐に反対して仲介に乗り出し、討伐軍においても山名氏は命令通り11月4日に出陣したが、一色氏は理由を付けて出陣を拒否した[50]。細川氏も出陣には否定的で、積極的だったのは命令を出した義持とかつての旧領奪回を願う山名氏だけで、将軍と守護大名の間に明らかな齟齬が生まれていた。
このように赤松討伐が実行されない内に、11月11日になって赤松持貞が高橋殿(義満の愛妾)と密通していたという直訴が行なわれた。持貞は弁明し、満済に取り成しを依頼した。満済は助命する代わりに追放するべきと主張したが、義持は受け入れずに切腹を命じた。それでも満済は畠山満家の協力を得て持貞を高野山に追放しようと画策するなど、義持の意向を無視した行動をとったが、義持の命令が強行だったためにその工作は間に合わず、持貞は切腹した。そして12月に赤松満祐は罪を許されて3か国相続を認められた。
最期
同母弟で第6代将軍の足利義教
応永35年(1428年)1月1日、義持は三条八幡に例年通りに参詣する。1月2日と1月4日には管領・畠山満家屋敷に渡御した。1月6日には鹿苑院に詣でて正月を祝った。1月7日、義持は浴室で尻に出来た出来物をかき破った事により発熱を起こした。このため1月8日には僧侶6名が室町殿に参賀して加持祈祷を行なったが、1月8日の夜からは風気(風邪)で雑熱を出して尻の傷も盛り上がるなどした。1月9日には医師の三位房允能の診療を受けたが、この時医師は特段の反応をしなかった。1月10日には僧侶等が室町殿に参賀する予定であったが、義持は雑熱で座る事ができなかったため、延引した。同日、尻の傷は馬蹄形に盛り上がるなどかなりひどい状態になってきたという。1月11日は幕府にとって重要な評定始の日であったが、この儀式に義持は近臣に手を引かれて出御するなどかなり無理をした。退出するときにも近臣に手を引かれていたという。一説に評定始には出席はしたが、「片時」(ほんの少しの時間)だけだった[55]。1月12日は毎年恒例として義持は斯波義淳の武衛屋敷に渡御する予定であったが延引した。1月13日、満済が義持に謁見するが、義持の尻の傷はますます重く腫れ上がって座る事もできず横になって寝たままだった。満済は義持の病状がかなり重い事を悟り、各寺の高僧に義持平癒の祈祷を依頼し、自らも加持を行なった。1月15日、義持の尻の傷は腐り出していたとされており、病状から傷が壊疽していた可能性も指摘されている。1月16日には重態となり、死期を悟った義持は満済を呼び出したが、この時の義持の状態は満済が見て「以ての外御窮屈、すこぶる肝を消す計りなり」と衰弱して極めて重篤になっていた。義持は満済に対して「思い定めるに、43歳で死去しても思い残すことはない。しかし、お祈りはよろしいように御祈り方に申し付けてほしい」と述べ、さらに禅宗による来世の世界を考えて「御工夫計りにて御座あるべし」と述べたとされている。
1月17日、義持は極めて危険な状態となる。このため管領の畠山満家をはじめ、斯波義淳、細川持元、畠山満慶ら幕府重臣は慌てふためき、満済の下に集合して後継者選定に関して話し合った。そして満済が義持に後継者の意向を聞いたが、「御相続の御仁体のこと、申し入るる処に、上(義持)としては定めらるべからざるなり」と後継者決定を拒否した。しかし畠山らは天下の重大事であるから再度義持の意思を確認せよと求め、満済が再度義持の下を訪ねると義持は近臣と末期の酒を酌み交わしており、満済は近臣を退出させて再度尋ねたが、「たとえ御実子御座あるといえども、仰せ定めらるべからざる御心中なり、いわんやその儀無し、ただともかくも面々計らいしかるべき様定め置くべし」と述べた。つまり後継者を義持は決定せず、幕府重臣に任せるというのである。
義持の意向に対して評議の結果、満済は義持の弟4人から1人を籤引きで定めることが決まり、義持もこれを了承した。義持が後継者を指名しなかった理由としては、「義量死亡の後に一度石清水八幡宮で籤を引き、その際に男児誕生の結果が出た。さらにその日には男児誕生の夢を見た。それなのにもう一度籤を引くことは神慮に背くことになる」と義持が語り、このため養子も猶子も定めなかったとしている。一方万里小路時房の「建内記」では、「たとい仰せ置かるといへども面々用い申さずば正体あるべからず(たとえ言い残しても幕閣が承認しなければどうしようもない)」と義持が語ったとされる。また義持は弟らが将軍職に耐えうる器ではない事なども考えていたとされている。義持は籤引きの条件として自分の存命中に籤での決定をするな、自分の死後に籤を引くよう言ったが、幕府重臣や諸大名らは「御没後には神前において左右無くこの御籤取りがたかるべし」(義持の没後に神前において籤を取りがたい、つまり籤を取るまでの後継者不在は混乱を起こす可能性があるから)と懇願し、1月17日の内に幕府重臣は籤を作って内々に神前で引き、義持死後に開封することを決めた。
1月17日の午後6時、義持は危篤状態となる。義持は人事不省となり、幕府は大混乱となった。そして1月18日午後10時頃、死去した。享年43。死因は敗血症と推測されている。
義持の死後、1月19日に籤によって将軍職は同母弟の足利義教が継ぐことになった。同日に義持の遺体は等持院に移され、1月22日に贈太政大臣の宣下が出され、1月23日に等持院において荼毘にふされ、遺骨が納められた。法号は勝定院顕山道詮で、位牌は相国寺勝定院に安置された。
人物
義持は父に室町時代の全盛期を築き上げた義満、弟に嘉吉の乱や守護大名粛清等で知られる義教がいるため、一般的には馴染みの薄い将軍として見られている。唯一有名な事績として知られているのは義教後継の際に後継者を指名せずに籤引きをお膳立てした事と言える。
医薬への関心が深く、香薬類の代表的合薬である潤体円を公家の山科教言に与えたり、医師の坂士仏宅を訪問したこともある。霊宝丹の薬方を日本に持ち込んだ陳外郎を登用し、外交を任せるようになったのも舶来薬種の確保が目的といえる。
性格
義持は調整役的な政治姿勢から温厚な人物と思われがちだが、当時の史料から義持は弟の義教に劣らず「短気なところがある性格」の持ち主で癇癪持ちだったといわれる。また信心深く、多くの寺社に参詣・参籠しており、満済日記だけでも確認できるだけでかなりの回数に上り、最も参籠の多かったのは北野社であった。ただ、回数が余りに多すぎるため、義持の信心だけが要因ではなく、政治的ストレスの解消を目的としていたのではないかともされている。
文化人として
義持は禅文化に心酔し、当時の第一級の知識人であった。そのため武将をはじめ、京都五山の禅僧が参集して文化サロンが形成され、水墨画が発展した[68]。義持の治世下は、詩画軸に全盛期であり、現在国宝に指定されている如拙筆の「瓢鮎図」も義持の発案・指導によって描かれた。それだけに飽きたらず、自分自身も画技にも親しみ、素人離れした作品が真贋に問題があるものも含めて15点ほど残る。
芸能においては、特に田楽を好み増阿弥を贔屓した。義持は、父への反発感から義満が好んだ猿楽能には冷淡だったと言われるが、猿楽能についても義満以上の鑑賞眼があったと伝えられ[71]、猿楽を見物した記録もいくつか残っている。
義持は和歌や連歌にもかなりの教養を持っており、朝廷で開かれた連歌会や和歌会にはしばしば参列している。
義満との関係
義持は父・義満と不仲だったと言われる。しかし義満は義持が9歳の時に将軍職を譲渡しており、その後も16歳までに権大納言に栄進するなど義満による引き立てにはかなりのものがあり(義満は朝廷が義持に与えた官位や位階に不足があると朝廷に苦情を述べたことさえある)、最初から仲が悪かったわけではなく、むしろ良き親子関係だった。2人の仲が悪くなったのは生母の藤原慶子の死去による対応にあったと思われ、義持は母の忌中として等持寺に籠居したが、義満は大酒を飲んで悲しみの態度を見せず、さらに酒宴を開いたりするなど、いわゆる正反対の対応を見せた事が多感な時期にあった義持に大いに影響したといわれる。
義満は義持を昇進させる事で足利将軍家が摂関家と同列あるいはそれ以上と見なす狙いがあったとされる。しかし義持の昇進がある程度まで進み、また成長してきた事もあって義満にとっては自らの権力・権威を高めるためには義持の利用価値が低下した。そのため新たな駒を立てる必要があり、それが義嗣であった。義満は義嗣を皇位簒奪のために登用を図った、あるいは摂関家からさらに上皇的な権威に高めるために義嗣を利用したとも考えられ、義嗣の異例すぎる厚遇が偏愛と見なされる事になったと推測される。また、皇位簒奪を否定する立場からは、義満は(北朝)天皇の権威回復と朝廷の再建のために「公家社会の一員」として朝廷へ積極的に関与したが、その目的を達したために本来の将軍の職務には関係のないその活動は「過剰」なものになりつつあった。そのため、義満は後継者である義持からその負担を除いて義嗣にその部分を担わせようとしたが、義持は足利将軍家が「過剰」なものを行う必要性も認めず義嗣の排除に至った(そして義嗣排除を行っても義満が危惧した公武関係の疎遠は生じなかった)、とする。
政策
外交
義持は義満が始めた日明貿易、そして明との冊封関係には否定的だった。治世当初は貿易に積極的だった斯波義将がいたためにしばらく冊封関係は続けたが、義将が死去した翌年には明の使者を追い返して事実上冊封関係を断絶した。この時、明の永楽帝は激怒して日本征伐を計画するほどだったという。永楽帝は応永24年(1417年)秋に冊封関係の復活と日本の使者の来貢を求めたが、義持は使者に会おうとすらしなかった。応永26年(1419年)になると永楽帝は再度使者を来日させて義持の態度を強く責め立て恫喝し、ここに至り日明関係は完全に断絶となった。
義持が日明関係を断絶した理由は、交易に関してのみなら義持も望むところであるが、外国の君に対して「家臣」を称し、日本国王の称号を与えられる事は神々に背くような事であると考えていたからとされている。また応永26年(1419年)と言えば応永の外寇があった年で、義持はこれを永楽帝の意を受けた李氏朝鮮軍の侵略と見なしていたため、明との断絶に踏み切ったといわれる。その他の理由としては、義持が重篤な病にかかった時に、医療への再認識が高まり、朝貢貿易の主要物が薬膳(生薬)と合薬で、それも南方産の香薬が主で、それらは中国では産しないことから琉球や東南アジアとの通交が確保できることを前提に、対明断交に踏み切ったとする。琉球との貿易で日明間の朝貢貿易を肩代りさせ、評判の悪い冊封関係を断ち切ろうとしたもので、下記に書かれている父義満との不幸な関係に反発しての反動的政策といった見方は一面的に過ぎるとする指摘もある。
ただし義持はあくまで義満の対明依存・臣従を拒否したのであり(実際、義持は応永26年の国書から「日本国源義持」と署名しており、国王とは署名していない)、あるいは義満への反発という個人的事情からであり、交易に伴う実利までは否定していなかった。
政治手法
義持は義満と違って調整役としての政治を心掛けた。例えば前述しているが、応永20年(1413年)までの5年間で義持が行なった所領安堵は他の将軍に比べると史料で判明している物だけでもかなり件数は多い[18]。それだけでなく、義持の時代には大名・側近に対する渡御(御成)もかなりの回数に上っている。御成とは臣下の家に出向いて接待を受ける事であり、満済の日記による記録だけでも義持の御成の回数はかなりの数に上り、中には寺社の参詣と御成で区別がつかないものまで存在するほどである。ここに強固な専制権力を確立した義満との違いがある。義満の時代も御成はあったが、それは正月2日における管領屋敷だけであった。義満は義持と違い、臣下を自分の所に呼び出して命令する事でその権威を示していたのであるが、義持はその反対、つまり家臣の屋敷に出かける行動をとった。義持の時代、義満時代に対する日本国王称号の批判や南朝残党の問題、上杉禅秀の乱や鎌倉府問題などがあり、政治的緊張が続いた時期もある。義持はそのような緊張を緩和するため、また義満のような強固な主従関係ではなく、主従の信頼関係を築くために御成を繰り返していたと見られている。また、義持は義嗣と将軍家の家督をめぐって争い、斯波義将ら守護大名に擁されて家督を継いだという負い目があり、御成を繰り返す事で緩やかな主従関係と将軍権威を保つ事ができなかったという点もある。こうして義持は調整型の政治家として頂点に立ち、御成を繰り返す事で義満時代の将軍専制から有力守護連合制へと転換しつつある幕府を保とうとしていたのである。
ただし義持は調整型としての手法が目立つが、富樫満成や赤松持貞の両事件のように側近を新たな将軍権力層として取り立てる事で守護大名に対抗しようとするなど、専制的部分が全くなかったわけではない。
朝廷対策
義持は朝廷とは極めて良好な関係を保った。諸大名へ御成をしたように、義持の参内・院参も確認できるだけでかなりの回数に上っている[82]。義持は後小松上皇と連携して緊密な政治関係を築いており、個人的にも上皇とは親しかった。また将軍家で義量夭折後に後継問題があったように、朝廷でも後継者問題があり、また称光天皇の性格などの問題もあって義持は上皇から相談を受けるほどだった。
義満も義持も朝廷ならびに「王家」である後光厳天皇系を支える強い意思があったものの、義持は義満のように自ら公家政治に参加して表舞台に出る存在ではなく、武家は裏方に徹して基本的には公家政治の表舞台に出るべきではないとする考えがあり、義満没後の太上天皇贈号拒否もその上で考えられる。
地方対策
東国(関東・奥州)方面に関しては前述しているように鎌倉公方の足利持氏との軋轢、関東管領・上杉禅秀の反乱などから義持は積極的な対策に乗り出している。対して西国、すなわち九州方面に対する関心は低かった。これは当時、九州に幕政を揺るがすほどの大事件が存在せず、また当時西国で大きな実力を保持していた大内盛見が義持政権の首脳部の1人として在京していたためであり、満済の日記でも九州に関する記述は余り見られていない。
寺社対策
義持は信心深い人物であった。義満が出家後に行った大規模な祈祷は減少する一方で臨時の祈祷をたびたび開催した。特に応永20年代には嫡男である義量および称光天皇の病弱、応永の外寇、鎌倉公方足利持氏との対立などの諸問題が噴出すると、義持がは問題が発生するたびに臨時の祈祷を開催し、足利将軍家に仕える所謂「武家護持僧」だけでは足りず、多くの高僧が動員された。更に出家直前の応永30年3月22日には自らを従五位下相当に過ぎない石清水八幡宮の権俗別当職という下級神官に任命している。
その一方で、多くの武器を所持したり傍若無人な乱暴を繰り返す僧侶を徹底的に取り締まった。相国寺に対しては自ら乗り出して兵具を没収し、さらに武器所持の僧侶数十人を逮捕して侍所に預けた。他にも行状不良の僧侶を召し捕えるなどしている。南禅寺でも武器所持の嫌疑で僧侶が逮捕されており、義持は僧侶の武装を厳禁した。また神人と争いが起こり、洛中で幕府軍と戦い多数の死傷者を出す事件も起こっている。
また義持は武装だけでなく、飲酒に対しても厳しい禁止令を出している。なお、義持はその禅宗に対する拘りから飲酒そのものを嫌悪して、禅寺に対する禁酒令のみならず公武や民間に対しても飲酒を規制する意図があり、息子・義量とその周辺の飲酒も規制したり、後の文安の麹騒動の原因となる北野麹座による麹造りの独占を通じた酒造制限を行おうとした(なお、義量が大酒飲みであったとする逸話はこの飲酒規制の曲解であるともされている)。
後継者問題
義持は義量が死ぬと、自らが死ぬまで後継者指名を拒否して新しい将軍を立てなかったが、これは少なくとも義持が壮健の間は大した問題にはならなかった。まず、義量はあくまで名目上の将軍で実質的な将軍は義持であり、その義持が健在だったこと、義量にも義持にも男子がいないという現実的問題があったためであるとされる[47]。ただしそれ以外では、義持が新たな男子出生を願っていたためともいわれる。義持は義量を失った時点でまだ40歳であり、正室の日野栄子も36歳であったため、まだ男子誕生の可能性はあったが、結局生まれなかった。
義持の家族に関して
義持は正室の栄子との夫婦仲は良好で、奈良や伊勢参詣で同伴し、また義持同様に田楽を好むなど趣味も一致していた。2人の間には嫡子の義量が生まれたほか、女子が存在していたと推測されている。
義持は義満のように女性関係は派手ではなかった。寵愛した側室には徳大寺俊子がおり、俊子との間には女子があったが夭折したとされる。また、他に男子が2人いたとされているが、幼い頃以外の動向が明らかでないため夭折した可能性が高い。他の女子を加えて、義持は合わせて3男6女はいたと推測される。ただ義持死去時に存命していたのは女子2人だけだったため、義持没後に後継者は義持の弟から選ばざるを得なかった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



足利義持 累葉の武将を継ぎ、一朝の重臣たり (ミネルヴァ日本評伝選) [ 吉田 賢司 ]





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Last updated  2021.07.07 07:03:16
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