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2022.04.16
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カテゴリ:京の史跡探訪
「紫野」の歴史再考にあたりネット検索をしていて、見つけたのが「​平安時代から現代まで 堀川源流考​」という電子書籍です。
今回までに、かつて「紫野」を流れていた、「若狭川」、「有栖川」、「堀川」、「小川」についてその流路について、「​平安時代から現代まで 堀川源流考​」の著者の推定を元に考察を行ってきました。今回からこれらの流路について、より深く検証していきます。

今回は、「若狭川」の流路について検証します。
まず今までの考察で設定した「仮説」と流路近くに存在した建造物の創建から衰退を時系列に並べてみます。

810年:紫野斎院創建
829年:紫野院(雲林院)創建
1001年:今宮神社創建
1114年:雲林院西門前に川が流れていた。
1185年:紫野斎院の近くを川が流れていた。(袖中抄​)
1190年:今宮神社東側に川が流れていた。
1212年:斎院付近の大宮末路を川が横切りそこに石橋があった。(宇治拾遺物語​)
1315年:大徳寺創建
1212年:紫野斎院荒廃
1222年:川が現在の今出川通を渡っていた。(岡屋関白記)
1477年:雲林院荒廃
1568-1583年:大徳寺如意庵西側を川が北から南へ流れていた。
1583年:総見院創建
1915年:船岡山の南から流れ出た小川が、廬山寺通を東へ流れ、大宮通りで若狭川(有栖川)と合流(​山州名跡志)

上記の記録からある程度場所が明確な記述は3つで地図上でし示すと下記図のようになります。

国土地理院地図​より作成

次に「紫野」を流れていた川の様子を年代を遡る形で確認してみます。

2022年
流路らしきものは、大徳寺の東側、本法寺東門前の堀、そして今出川通の南から開渠になる再生した堀川の流れ程度です。

国土地理院地図​より作成

1929年
若狭川は現在の雲林院辺りで猪熊通方向へ流れを変え、途中暗渠となり二股川に流入し、疏水分流と合流し、小川となり南に流れ、一条通を西に向かい堀川に流入していたようです。また、船岡山北西部に池らしきものがあり、船岡山南麓には真教寺辺りに水路らしき線が認められます。

国土地理院地図​より作成

1912年・1892年
この年代の地図になると細かな流路は確認できなくなってしまいます。
当時の地図は、航空写真を元に作成されたと思われますので、当時の写真の解像度の問題で地上の詳細な情報を読み取ることができなかったのだろうと考えます。1892年の地図では、合流前の賀茂川、高野川は河原のみ描かれていて水路はありません。このころは両川共に「水無川」だったのでしょう。
そこで、下記の古地図から流路の変遷を想像してみた。

「​京都市圖​」(1895年)
「​​京町御絵図細見大成​」(1868年)
「​古今都細見之図​」(1861-1863年)
「​花洛往古図​」(1778年)
「​​中古京師内外地図​​」(1750年)
「​増補再販京大絵図(乾)​」(1741年)
「​​元禄九年京都大絵図​」(1696年)
「​寛永後万治前洛中図​​」(1642年)
「​上杉本洛中洛外図屏風​」(1565年)
「​京都市史地図編​」

1868年
江戸時代になり今宮神社東側に通称「若狭川用水路」が掘削される。

国土地理院地図​より作成

1750年
この頃まで二股川と堀川を結ぶ水路が存在したと推定。

国土地理院地図​より作成

1585年
総見院創建で大徳寺周辺の若狭川流路が変更される。小川の分流「東小川」が存在し、二条城築城まで「大宮川」が存在したと推定。

国土地理院地図​より作成

1568-1585年
大徳寺西側境内を若狭川が北から南へ流れていた。船岡山南麓に有栖川が流れていたと推定。

国土地理院地図​より作成

1568年以前の「若狭川」流路
1568年以前の「若狭川」の流路を示す情報は限られています。

1、「兵範記」に雲林院の西側に川が流れていたことが記載されている。(1114年)
2、「袖中抄​」に紫野斎院の近くを川が流れていたことが歌われている。(1185年)
3、「​年中行事絵巻​」に紫野御霊会の様子が描かれており、今宮神社の東に川が流れている。(1190年)
4、「宇治拾遺物語​」に斎院付近の大宮末路を川が横切りそこに石橋があった記載されている。(1212年)
5、「岡屋関白記」川が現在の今出川通を渡っていたことが記載されている。(1222年)

以上のように、雲林院西側から、どのように紫野斎院の近くを流れ、大宮末路を横切り、現在の今出川通を横切り、堀川に注いでいたのかが不明です。その間の流路は、「角田と片平の紫野斎院西側説」と「「​平安時代から現代まで 堀川源流考​」の著者の紫野斎院東側説」があります。

次にこの2つの説を検証しながら「若狭川」の流路を推定したいと思います。


引用:p78図、「​平安時代から現代まで 堀川源流考​」

上図のように川田、片平は雲林院西門西側(A地点)から、南流させ紫野斎院推定地の西側を通過し、蘆山寺通を越えたあたりで、南東に方向を変えてD地点で大宮末路を横切り、方向を南に変えながら今出川通を横切り、堀川に注ぐ流路を想定しました。
「​平安時代から現代まで 堀川源流考​」の著者も同様に西側流路説も述べていて、そこには彼の自説である「船岡山南麓のアリス川」を髣髴とさせるもう一つの流路も加え、上図朱線のような流路を想定しています。

次に、「​平安時代から現代まで 堀川源流考​」の著者の東側流路説を下図に示します。

引用:p84図、「​平安時代から現代まで 堀川源流考​」

雲林院西門西側から標高差に従い、南東方向に流れ、現在の「筋違橋町」辺りにあった石橋を潜り、大宮末路を横切り、そこから大宮末路に沿って今出川通手前まで南流し、今出川通手前で東に向きを変え、再び南流して一条通で堀川に注いでいたと推定しました。
「​平安時代から現代まで 堀川源流考​」の著者が、このような推定に至った理由は次の通りです。

1、雲林院西門西側からの流れ
南に向かう西側流路説では、船岡山の稜線を横切ることになるので流路的にふさわしくない。紫野斎院の西側(裏側)を流れる川では、「​袖中抄​」に歌われる「斎院のおはします本院のかたはら」の川にふさわしくない。A地点からの標高差、地形を考えると南東方向に流れるのが自然である。南東方向に流れると、「​京都坊目誌​」に「筋違橋町」の町名起源として「堀河の上流(大宮川也)と有栖河の流れと、此町に相合し南注す。往時斜に橋梁を架せしより、此稱ありと云ふ」と記述のある「筋違橋町」辺りで川は大宮末路を越えることができるとしています。

次に私が、「​平安時代から現代まで 堀川源流考​」の著者の根拠に違和感を感じる点を述べます。

標高差
著者が標高を測定した地点の南方向は丁度「智恵光院通」に当たり、整地され道路になっているために、自然地形より傾斜がなだらかになっている可能性がある。また、船岡山の稜線にかかるというが、流路としてありえない地形ではない。著者の南西流路は、地形の尾根線を流れているので、この流路の方が自然河川の流路としてはふさわしくない。

「筋違橋町」の由来
また、「筋違橋町」が形成されたのは江戸時代以降と思われます。よって、平安時代にここに石橋があったので、「筋違橋町」と名付けられたと考えるより、江戸時代以降下図の流路になった頃、上の青丸内の橋が「筋違橋」と呼ばれていたので、町名が「筋違橋町」となったと考える方が自然と考える。


推論方法
​「​平安時代から現代まで 堀川源流考​」の著者は、時より次のような推論を展開します。
​​例えば、「​京都坊目誌​」の「町名起源 堀河の上流(大宮川也)と有栖河の流れと、此町に相合し南注す。往時斜に橋梁を架せしより、此稱ありと云ふ」という情報源から、この地点で2つの川が合流していたという記述は解せないとしながら、ここに川が流れていたことは間違いないとする。のように、同じ出典からの2つの情報の一方は採用し、他方は採用しないといった推論を行います。この論法は、私には受け入れられません。​​

2、堀川への流路
「​平安時代から現代まで 堀川源流考​」の著者は、「岡屋関白記」に法印側の者が時仲の車を壊して、川底に落としたことが記されているとして、合流後の有栖川が単に北小路(現今出川通)横断していたのなら、橋の上から放り投げたことになるが、もし自身が「岡屋関白記」の筆者であれば、橋のことに触れるだろうし、車が投げ込まれた場所は橋が架かっていたところではなく、狭い道路にそって流れていた場所ではなかったろうかとしています。その方が車を投げ込むにはるかに容易で、ありえそうなことだとしています。​
この記述と現在の地形から流路を推定していますが、推定に自身の憶測が入りすぎている。さらに現存する堀川との流路の兼ね合いもあり、受け入れがたいところがある。(下図:「​平安時代から現代まで 堀川源流考​」の著者の推定流路)



























引用:p83図、「​平安時代から現代まで 堀川源流考​」

私は、現在の流路から時代を遡ることで平安時代中期の「紫野」を流れていた河川の様子を想像しようとしてきました。そこで、平安京遷都前の流路を想定して、そこからの流路の変遷を想像することで、平安時代中期の流路を推定してみようと思います。

平安京遷都前の「紫野」の河川
1568年頃の流路までは、なんとなく推定出来てきましたので、この時代の流路を元に、現在の地形図を参考に平安京遷都前の流路を想像してみました。(下図)


Web等高線メーカー - KTGIS.net​を用いて作成

この流路に現在の地図を合わせると下図の様になります。

国土地理院地図​より作成

793年頃
長岡京からの遷都が決定し、平安京の造営がはじまりました。大宮大路の北方延長線上にあった若狭川の流れを南進させ、「大宮川」として平安京内に導き入れ、二股川の西側流路を整備し「堀川」として東堀川小路を南流させました。二股川の東側流路は「小川」として、一条通を西進させ堀川に流入させ、一条通、内裏、大宮川、堀川の水源に加えたと推察します。

国土地理院地図​より作成

810年頃
紫野斎院が創建されます。創建地については現在の大宮通蘆山寺通を南東角とする説を採用します。
これに伴い、造営地付近が整備されたと考えます。

国土地理院地図​より作成

829年頃
この頃、「紫野院(雲林院)」が創建されます。「大宮末路」が北に延長され、「紫野院(雲林院)」の南大門に接続されます。同時に周辺が整備されたと推察します。

国土地理院地図​より作成

1001年頃
今宮神社が創建された頃、その東側に若狭川が流れていた。この頃、「北山蓮台寺(上品蓮台寺)」、「引接寺」、「北野天満宮」、「平野神社」が存在していたと思われる。

国土地理院地図​より作成

上図の状態なら下記の記述に出てくる川の流れを再現できているものと考えます。

1114年:雲林院西門前に川が流れていた。
1185年:紫野斎院の近くを川が流れていた。
1190年:今宮神社東側に川が流れていた。
1212年:斎院付近の大宮末路を川が横切りそこに石橋があった。

一点、合致しないのが「斎院付近の大宮末路を川が横切りそこに石橋があった。」ですが、東に流れてきた「有栖川」が南に流路を変える際に「大宮末路」を斜めに横切り、そこに石橋があったと考える。

1568年頃
「雲林院」と「紫野斎院」はこの頃には衰退してしまい、1467年に始まった「​応仁の乱​」によって、京都の市街地は荒廃します。この頃、大徳寺境内西側に「若狭川」が流れていた記録が残っています。
豊富な水源をもたない船岡山周辺の水路は、この頃には、平常時は水路を失っていたであろうと考えます。

国土地理院地図​より作成

1583年頃
豊臣秀吉​により「​御土居​」が築かれ、「堀川」と「小川」の間に幾つかの寺院が移転してきました。

国土地理院地図​より作成

1868年頃
​豊臣秀吉による流路整備から大きな変化はなかったと考えます。

国土地理院地図​より作成

1890年頃
琵琶湖疏水が開通し、分流が賀茂川を越えて堀川に合流するようになります。その際に流路の整備が行われ、「若狭川」を「堀川」合流させて、大宮通を南流していた流路が失われたと推察します。

国土地理院地図​より作成

1953年頃
「紫野」北部の都市開発と紫竹、大宮、西賀茂一帯の農地開発が進み、水路が整備された用水路が整えられました。結果、「​尺八池​」を水源としていた堀川上流部は、「賀茂川」に注ぐように変更され、「堀川」は主たる水源を失うことになり水量が減少します。また、「若狭川」が「堀川」に注いでいた水路が暗渠となります。

国土地理院地図​より作成

1960年頃
この頃、「若狭川」の水源が宅地開発の影響で水量を失い、「若狭川」は姿を消します。また「小川」も暗渠となります。しかし、「船岡山」、「雲林院」、「櫟谷七野神社」が、かつての「紫野」の風情を今に伝えています。

国土地理院地図​より作成

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麺や笑門​(ラーメン)
北京亭 本店 ​(中華料理)
一麦七菜​ (イチバクナナサイ )
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​知蔵人 ​(中華料理)​
紫野 川はた​(居酒屋)
雨の日も風の日も​ (ベーカリー)


京都の中華 幻冬舎文庫 / 姜尚美 【文庫】





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Last updated  2022.04.16 05:10:36
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