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2022.11.20
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カテゴリ:京の史跡探訪
京都の戦の歴史、今回は山城国一揆です。

山城国一揆(やましろのくにいっき)は、文明17年(1485年)、山城国(現在の京都府南部)南半の上三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行った事をいいます。一般的に国人が起こした一揆のことを国一揆といいますが、山城国一揆は惣の農民らが参加している点で惣国一揆ともいうことができます。

山城国一揆の成立
応仁の乱が終結した後も各地で守護大名同士の小競り合いは続いていました。南山城でも例外でなく、畠山氏は跡目争いから畠山義就と畠山政長が争いを続けていました。山城には名目上の守護しか置かれていなかったものの、文明10年(1478年)の畠山政長の任命後は本格的な領国化を目指す動きが盛んになっていました。その中で繰り広げられた両畠山氏の長年にわたる戦いで国人衆や農民は疲弊し、山城国一揆の土壌が整いました。

引用: せいか歴史物語 デジタル版 中世3 山城国一揆

文明17年(1485年)、南山城の国人衆や農民らが宇治の平等院に集まり評定い、「国中掟法(くにじゆうおきて)」を取り決めて、両畠山氏の影響を排除して、南山城の自治を行うことを決めたのです。「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆により政治がおこなわれ、南山城は惣国とよばれる政治形態となりました。

山城国一揆の崩壊
国人衆による政治は、国人と農民の対立や国人同士の対立を生むことになり、惣国は崩壊の兆しを見せ始めました。特に明応の政変による幕府内部の混乱は幕府有力者達による山城国人衆への切り崩し工作となって現れ、これまでは半ば名目上の守護であった伊勢貞陸は京都から追放された前将軍足利義材の支持者の京都侵攻に対抗することを名目に山城全域の一円知行化を目指すようになり、国内の寺社本所領の接収を進めました。更に貞陸が大和の有力者で畠山基家の被官でもあった古市澄胤を綴喜郡・相楽郡の守護代に任じて支援を仰いだことで、伊勢・古市の支配を認めて従来の地位を維持しようとする国人達と「他国者」の古市の侵入を認めず細川氏などと結んでこれを排除しようとする国人の動きに分かれたのです。
明応2年(1493年)、伊勢氏に近い国人達は自ら自治を放棄する集会を開き惣国は解体され、守護の支配下に入ることになりました。これに反対する一部の国人衆は稲屋妻城に立てこもって抵抗します。だが、義材追放の中心人物であった細川政元は、義材方勢力の反抗に対抗するという伊勢氏の主張を拒むことが出来ず、表だって一揆側を支援することが出来なかったのです。政元や畠山基家は古市澄胤に兵の引き上げを命じましたが、守護伊勢貞陸の支援を受けていた古市はこれを拒否して国人衆の抵抗の鎮圧にあたりました。翌年11月には古市軍によって一揆側は敗れ、ここに山城国一揆は完全に終結を見ることとなったのです。



引用: せいか歴史物語 デジタル版 中世3 山城国一揆

以後山城は伊勢氏の統治下に置かれましたがたが、鎮圧から翌年の明応3年(1494年)に畠山氏の家臣が勝手に南山城に侵入、翌年にも同様の事件が発生、明応5年(1496年)に政元の家臣赤沢朝経が畠山氏の家臣を追い払うまで南山城に居座りました。相次ぐ事態に伊勢氏は単独で対処出来ず山城での権力を低下させ、反対に政元の影響力が増していったのです。
明応6年(1497年),足利義材の支持者の畠山尚順が挙兵、危機的状況に対処するため、10月に政元の家臣香西元長を下郡守護代に就任させ、伊勢貞陸は守護職を保持するという変則的な人事が行われました。この決定は伊勢氏と細川氏の妥協であり、香西元長は以後山城で権勢を振るうようになっていきます。

出典:山城国一揆、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山城国一揆と戦国社会(357) (歴史文化ライブラリー(オンデマンド版)) [ 川岡 勉 ]





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Last updated  2022.11.20 00:00:18
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