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田辺 聖子著 『薄荷草の恋(ペパーミント・ラブ)』(『男と女 お聖さんの短編』)
ぼくは詳しくは知らないのであるが、この短編集に出てくる登場人物のほとんどが大阪弁を話している事から察するに、田辺は大阪出身ではなかろうか。 そうとすると、やはり自分の生まれ育った土地の言語というものは特別な意味があると思う。 その土地の中で一生を過ごすのであればあまり感じることはないと思うけど、外に出る機会、特に日本限定版人種のるつぼとも言うべき東京で暮らしたことがあれば、より一層地元の言葉に対しての一種安心感にも似た穏やかさというものを感じるのではなかろうか。 標準語というのはだれにでもわかることばだ。 誰にでもわかるということは、言ってみれば最大公約数的な機能を果たす。 となれば、必要最低限の意思疎通ができればとりあえず問題は生じない。 ところが人間、この最大公約数からあぶれたところに個性が潜む。 でもそれがなかなか最大公約数的標準語では表現しきることが難しいのだ。 言語はレトリックだが、会話はレトリック以上の意味を含む。 その裏の意味を、地元の言葉であれば、自由自在に操ることができ、しかも他人と共有できるため、意思疎通のツールとしても使えるのだ。 自分をより確かに他人に伝えることができる。 この状況はありがたい。 もうひとつ。 「大阪弁」という言語自体の持つ魅力というものも無視できない。 最近仕事で関西へ行く機会が多くなってきたのであるが、なんというか、大阪弁って柔らかい。 言葉の意味を文字通り解釈すると、かなりきわどいものが多いのであるが、相手の顔を見ながらできる会話においては、普段大阪弁を放さないぼくにも、その裏に潜む人間らしさが伝わってくるように思える。 べつにやさしいとか暖かいとか、そういうんじゃない。 お世辞ばりばりで人間臭いのだ。 そこがすごくいい。 漫才などで大阪弁を耳にする機会は多いが、実際に会って話をするとまったく感じ方が変わってくる。 まあ、テレビの中の大阪弁ってのは一方的なコミュニケーション・ツールでしかないので、そこには相手の顔を見ることはできないんだけど。。 人間臭さが真っ直ぐに表現される。 一度くらい大阪文化圏で生活してみたいと思ってはいる。 そうしたら随分と刺激されるだろうな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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