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清水 義範著 『双子のように/袖すりあうも他生の縁』
だれにでも自分の世界というものはあるのではなかろうか。 それが価値観であれ、ポリシーであれ、美学であれ、白昼夢であれ、現実逃避であれ、趣味の世界であれ、なんらかの自分だけの世界というものがあると思う。 で、その自分の世界にいることが辛いという人はいるのだろうか? たいていの場合、自分自身にとって一番居心地のいい世界なのではなかろうか? もちろん、自分の世界は自分だけの世界であり、他人と共有することなどできない。 部分的には可能かもしれないが、たとえばタイガースファンが全員まったく同じ世界観をもっているとは思えない。 とすれば、自分の世界と現実との世界の間でなにかしらの調整(アジャスト)が必要となってくる。 この調整がなかなか難しい。 プライドの高い人は自分の世界が侵食されそうになれば、目くじらをたてて怒り出すだろうし、自分の世界の根拠を「外」に求める人は、現実の世界自体もすべて自分の世界に組み込もうとやっきになるだろう。 あるいは完全に自分の世界に閉じこもって現実の世界との交流を一切拒む人もいるかもしれない。 俗に言う引きこもりである。 引きこもりは自分の世界が現実とは相容れないものだと理解した上で、自分の世界に引きこもる。 それはそれで問題あるんだろうけど、ここで指摘されているように、自分の世界と現実の世界の境界がわからなくなってしまった場合である。 いってみれば、王様的、女王様的と言えるかもしれない。 自分を中心に世界が回っているのである。 一見観念論のようで、実はぜんぜん内容が違う。 そこにあるのは事象を読み解く客観的判断基準ではなく、すべてを自分のルールへと当てはめていくご都合主義的世界観だ。 これは世の中の出来事を自分のいいように解釈し、都合の悪いことは他人のせいにしてしまうので、とにかく居心地がいい。 しかも、自分を否定する人間を完全に排除することができれば、それこそ、その自分の世界によって完全にちかい自己肯定ができてしまう。 もちろん、そういう考え方を持つことも時として必要になってくる。 すべてを自分で背負い込んでしまうとやたらと考え方がネガティブになってしまう。 ポジティブシンキングを行うためには少なからず、このような自分の世界で世の中を眺めてみることは必要だと思う。 ただ、境界線の存在には、常に気を配る配慮が欲しい。 そうでなくなったとき、知らず知らずのうちに他人の世界までも陵辱しかねない。 このバランスがむずかしい。 自分の世界を信じ込みすぎてもいけないし、他人に依存しすぎてもいけない。 結局、自分の世界をいろいろな考え方や事象に対応させていけるような順応性を養っていくことが大事なんだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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