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小林 康夫/船曳 建夫編 『知の技法』
普遍的という言葉を考えてみたとき、その普遍という言葉のキモとなっているのは「反証可能性」(falsifiability)であるとこの本の中で記述されている。 「反証可能性」すなわち平たく言ってしまえば、同じことを繰り返すことができるかどうかである。 誰がやっても同じ結果が求められる世でなければ普遍的ではないというのだ。 そう考えると、学問と普遍的という言葉は切り離してはいけないような気がする。 誰がやっても同じことが学問である以上、そこになんらかの発見をすることはすごく難しいことだと思う。 誰にでもわかるようなことを実験で踏襲したところで、「So what?」といわれてしまうのが落ちである。 誰にでもわかることを実験で証明したところで、それ自体には意味がない。 それをどう斬っていくかが大事なこととなる。 そうなのだ。 学問の対象は事象そのものではない。 事象の起る原因にあるのだ。 すなわち、実験をしようがシミュレーションを使用が、事象の記述で終ってしまうようであれば、それは学問ではない。 日記のようなものである。 また、実験の検証がなく、やる人によって結果が違うことでなにかを記述しようとしたら、それはぼくの日記同様、エッセイでしかない。 そこにいくら本質を含んでいようが、学問としての価値は薄い。 事象そのものをつぶさに調査していきながら、その後ろに隠れている因果関係に対して、客観的な考察を加え、普遍的に記述していく。 そんなたいへんな『学問』をやるからには、なんとしても社会に貢献する内容にしてもらいたいものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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