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アパルトヘイト廃止をめざす南ア人民支援連帯基金編 『アパルトヘイトの彼方に人間が輝く 日本人に何ができるか』 >1990 (株)大月書店 p.157-158 昨日の日記に関連して、想像力というところでもう一つ。 今回はさらにその日本人の想像力がいかに貧しいのかが表現されているといえる。 「自己中心的考え方が強すぎるということです。卑近な例ですが、私の家の前に道路があって、自動車がよく止まって、ジュースの缶を道に投げ捨てるんです。だれかがその缶をひろわなきゃならない、捨てた先がどうなるのかへの想像力がない。不思議ですね。想像力が自分の身体の周辺の一メートル以上先までは及ばないということです。その先まで想像力が進展しないと、人間のコミュニティなど成り立たないですよ。しかし、アパルトヘイト問題で、一万数千キロ彼方の南アフリカまでいっきに想像力が飛ぶことができるならば、そこから遡って自分たちの回りも変えようとする観点が生まれるし、変わってくるんじゃないですか。」 これと同じような出来事に出会ったことがあった。 昔アメリカでスキー場へ行ったとき、帰ろうとして車で着替えをしていたら、近くの車に老夫婦と思われるカップルがやってきて乗り込んだ。 なかなか優しい感じのご夫婦で、絵になっていたんだけど、なんと車に乗ってさあ出発という間際、ドアを開けてゴミを駐車場へと捨てていったのだ。 煙草の吸殻を捨てていくのは何度か見たことがあり、それだって気分が悪くなっていたんだけど、さすがにこのときは驚きのあまり、女房ともどもしばらく口をきくことすらできなかった。 そのときどうしてああいうことが平気でできるのか、まったく理解することができなかった。 どうしてそんなことができるのか、言い換えれば、地面に捨てられたゴミをみてほかの人がどう感じるのかが想像できないのである。 正直言うと、そういうことが想像できない人はぼくはまったく理解ができない。 ここではアパルトヘイトの問題を考えることで物理的に想像力の及ぶ距離を伸ばして、身近な想像力も改善していけるのではと期待している。 まあ、主題がアパルトヘイトだけにややこじつけ気味ではあるけれど、場所性とか空間性、時間性というものの人間社会に与える影響におおいに興味のある僕としては、面白い考え方である。 距離、社会、周囲の人、場所などなど、人は取り巻く環境によって行動が規定されることが多い。 その想像力の及ぶ距離が大きければそれだけ多くの環境因子が行動を決定する要素として作用してくることとなる。お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年05月05日 11時16分31秒
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