カテゴリ:カテゴリ未分類
ビートたけし著 『たけしくん、ハイ!』 1995 (株)新潮社 p.17
昔の日本家屋はいわゆる田の字と呼ばれるプランが多く、大黒柱を中心として廊下がなく直接部屋がつながっていた。 もちろん、縁側のようなものでつなげられていることはよくあるけど、その場合でも部屋が独立していることは少ない。 2つ3つふすまで仕切られた部屋が続いている場合がほとんどだ。 そのような田の字プランの特徴は部屋のサイズの柔軟性と、部屋の用途の多様性だ。 先ほども言ったように多くの場合、日本家屋では部屋と部屋がふすまで仕切られている。 それで、ふすまを開け放てば一間につながる。 今風に言ってみれば、ふすまが可動式間仕切り壁のような役割を果たすので、大きな部屋を小さく分割している。 それだけ部屋の大きさに変化が起こる。 ただし、当たり前であるがこれは部屋の数の多い、比較的大きな家の場合だ。 部屋の数が限られてくると、必然的に部屋の用途の多様性が求められる。 すなわちここで言われているような情況が生まれる。 一間しかない、あんなちっちゃな部屋で母親がたけしを叱る。 一間しかない、あんなちっちゃな部屋で父親が泥酔し、母親や祖母に暴力を振るう。 一間しかない、あんあちっちゃな部屋で祖母が弟子に義太夫を教えている。 一間しかないからちっちゃかろうと、あらゆる機能に対応せざるを得ない。 ぼくはヨーロッパやアメリカの貧困とは言わないまでも裕福でない一昔前の人達の住宅事情に詳しくは無い。 しかし、本で読む限り、病気でもしない限り、ベッドルームで食事はしない。 もちろん奴隷の生活はもっと悲惨であったが、それはあまりにも条件が違いすぎる。 比較するのであれば蟹工船に乗っていた船員たちの生活状態だろう。 とにかく、部屋になんらかの目的機能を持たせる場合が多い。 どちらがいいのか、一概に答えることなどもちろんできない。 でも、すくなくとも人間が社会的動物として機能していくためには、家族の間でもある程度の空間の共有は必要になるのではなかろうか。 その場において「社会」の基礎を経験し、実際の社会へと対応していく。 それが崩壊してしまったところに利己的な犯罪が成立するとぼくは思う。 面白いのは社会的動物であるがゆえに、協調を求められるのであるが、社会的動物であるがゆえに、プライバシーが尊重される。 この協調と個の尊重という一見矛盾するふたつの項目のバランスの上に人間の社会は成立している。 その縮図として家族があり、家がある。 とすれば、極端な話、今の建売住宅のような廊下で個室がつながっていて、機能がばらばらになっている部屋の集合体である家に住むということは、社会的協調性よりは個に圧倒的なプライオリティを与える価値観に支配された社会を肯定することになる。 逆に、一間に家族全員が住んでいるような家では、滅私の精神が重要視される。 この思想的価値観というものは、それまでであれば文化的背景による範囲と比較的一致していた。 ところがマスコミの発達とインターネットによる世界同時多発的イベントが可能になったことで、この領域というものがあいまいなものとなりつつある。 となればあらたに思想あるいは価値観による住み分けが可能になるのであろうか。 ぼくはそれは個人的には理想なんだけど無理だと思う。 ことばや文化の壁は凌駕できても取り除くことはまずできない。 そうであればやはり、多様な考え方をもった人がおなじ領域で暮らしていけるような社会作り、ひいては家作りが必要になってくるのではなかろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|