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カテゴリ:駅からハイキング 秋田県
秋田市 紀行家・菅江真澄の命名した旭川ぶらり歩き
佐竹公累代の居城跡(千秋公園)から外町を歩くコースです。よみがえる水100選・旭川の川瀬を渡り、藩政時代の羽州街道を商人町として栄えた久保田のメインストリート外町(大町)を散策しました! 駅ハイ2日目も秋田駅、「秋田マタギの里パス」を利用して電車で来ましたよ 受付時間まであまり余裕が無い! 駅売店から日替わり弁当を買い急いでかきこむ。。程なく完食!(;-_-) =3 フゥ 秋田駅中央改札口前にある「秋田市観光案内所」にて受付を済まします ※ 参加者がしたみママ一人の為、案内人さんの発案により、駅ハイパンフに掲載されているルートとはかなり違うルートを歩いていますこと、ご承知ください。 *:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;; したみママ&案内人さん、秋田駅を出発です ポケットパークは、大手門の堀を中心とした眺望を活かした公園として整備しました。また、誰でも安全に利用できるように、園路はスロープにしています。 開放感のある多目的広場のエリアと親水性のある木製のデッキのエリアからなり、スロープでむすばれています これは何でしょうか? 早速登ってみましたが・・・ なんだろう?何かの記号かと思いますが・・わかりません。。 池にはサギや鯉もいますよ 彌高神社は明治42年(1909)に、国学者平田篤胤、経世家佐藤信淵の両大人を祀る神社として創建され、大正5年(1916)現在地に移築したものです。 園内 久保田城御隅櫓 御隅櫓は、本丸北側の高台にあり、久保田城の見張り場と武器庫の役割を担っていた建物で、当時は二層造りであったと考えられていますが、火災により明治13年(1880年)に消失しました。 秋田八幡神社 茨城の太田城に創建した佐竹家の氏神を久保田に移し、のちに初代藩主・佐竹義宣を祀る秋田神社を合併し、八幡秋田神社と名を変え内町(武士の町)の総鎮守となりました。 2005年1月9日午前4時ころ放火により出火し、本殿と拝殿を全焼する火事を起こし、その後、再建しました。 園内 佐竹義堯公銅像 第12代秋田藩主佐竹義堯〈文政8年(1825年)~明治17年(1884年)〉は、近代秋田を築いた最後の藩主であり、戊辰戦争では、新政府方に属して戦いました。明治維新の激動期を生きた象徴的な人物です。 園内 御物頭御番所 「御物頭御番所」は、秋田藩の藩政機構のうち番方に属し、城内二ノ門(長坂門)の開閉と城下の警備、火災消火を担当した物頭(足軽の組頭)の詰所で、秋田市指定文化財です。 久保田城表門 久保田城表門は、二ノ丸売店脇の長坂を上がりきった本丸に位置し、久保田城本丸の正門でした。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、南側には門の警備を担当する「御番頭局」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていました。この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに、平成11年から2カ年計画で再建したもので、構造は木造2階建て瓦葺きの櫓門で、20万5千8百石の正門にふさわしい壮大なものとなっています。 園内 佐竹資料館 園内 茶室「宣庵」 茶室「宣庵」は、昭和28年(1953年)に秋田市県都350周年記念事業として、県内茶人有識者の厚意により建設され、同33年に秋田市に寄贈されました。茶庭に設置された船形の手水鉢は、文禄の役の際に加藤清正が朝鮮から持ち帰り、大阪城内にあったものを石田三成のはからいで佐竹東家に贈られたと伝えられています。 水を汲み穴に落とすと澄み切った音が聞こえますよ 大賀ハス(7月下旬から8月にかけて開花し、3~4日で散ってしまします。) 咲けばこんな感じです 手を洗う時に使うらしいです。。 園内 時鐘 時鐘は、寛永16年(1639年)、二代藩主佐竹義隆が城内二ノ丸の一角に鐘楼を設置したのが始まりとされ、幾度かの改鋳、移転を経て、明治25年(1892年)現在の位置に建設されました。 昭和18年(1943年)に、太平洋戦争により供出されましたが、同23年「平和の鐘」として復活しました。しかし、同43年には、鐘楼(当時木造)の老朽化等の理由により廃止されました。現在の鐘は、同48年に復活したもので、公募による愛称「千秋の鐘」として、家臣・吉敷家の末裔が今も1日2回(朝7時、夜9時)時鐘を打ち続けています。 No.2に続く・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.11.11 22:32:02
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