私の黒歴史 55
また東京で仕事をして本部道場にうかがった。クリニックの玄関から待合室を覗き込むと奥様が愛犬とソファーに座ってテレビを見ておられた。「こんにちは。」「あら、あなた、伊藤さんとこの・・・。お父さん、お父さ~ん、ほら、伊藤さんとこのお弟子さん見えられたわよ~。」2階のほうに声をかけていただいた。会長が2階から降りてこられた。「こんにちは。伊藤君から聞いてます。今日は道場で稽古するんだね。ちょうどT君の柔術のクラスが始まるところだ。いっしょにやるといい。」「あ、はいよろしくお願いします!」「じゃあ、こちらへ」奥の方に細い廊下があり、左手に更衣室があった。更衣室にはいると5人くらい、着替えをしていた。「みなさん、今日は新潟支部の方が来ました。一緒に稽古したいということです。T君、よろしくお願いします。」T君と呼ばれたその人は、本部道場の筆頭師範のお一人だった。大柄で、180センチくらいあり、体重も90キロ近くはあるだろう。髪は短めで、色は浅黒く、鼻の下に口ひげがあった。年齢は40台前半くらいに見える。黒い柔術着で、左手に黒いサポーターのようなものをしておられた。その黒いサポーターは指が全部出ていて薄いグローブのようにも見えたが、テレビで見る「必殺仕事人」のようなイメージを連想させた。はっきり言ってそうとうヤバそうな感じの人だ。ヤクザの親分かマフィアか。「あ~はい、わかりました。」その声は、なんというか、意外と小さいが、独特の響きをもった声だった。例えて言うなら、温泉にはいってのんびりしているときに隣の人に話しかけているような、のどかさを感じさせるような・・・・そんな声だった。「私はまたあとできます。よろしく。」会長が奥の方に戻って行かれた。「新潟支部から来ました。石月と申します。よろしくお願いします!」T先生と皆さんに挨拶した。それぞれ独特な挨拶をかえしていただいた。「ちわ~っす!」「よろしく~!」「~っす。」無言でぺこり。T先生は、「遠くからご苦労様です。ま、とりあえず着替えて」と言ってくれた。私は柔道着に着替えて道場に入った。縦長で板の間の道場だった。奥には「八幡大菩薩」と書かれた掛け軸が飾られてあり、その上に神棚があった。周りには槍、棒、刀など、様々な武器が立てかけられていた。壁には、会長が免許皆伝を得た流派の証書が数多く飾られてあり、大東流合気柔術の技の名前が書き連ねてある書も貼られていた。雰囲気としては、時代劇に出てくる江戸時代の町道場のような雰囲気だ。一礼をして道場に入った。身がひきしまる思いだった。すぐに会長が入って来られた。全員が元気よく「よろしくお願いします!」と礼をした。まず全員で武術気功をした。実はこの気功法は全く知らなかった。新潟では最初に定歩崩拳をやる。こんな気功法は見たことがない。とまどってしまったがとにかく見様見真似でやってみた。会長がそれを見て言った。「これは武術の基本中の基本です。しっかりできるように。」「は、はい!」「お前は基本すらできないのか!」と叱られたような気分だった。しかし、知らないものは知らない。習ってないものはしかたがない。「次は一文字腰。」えっ?何それ?これも聞いたことも見たこともない。一文字腰というのは古流柔術の基本の立ち方であり、鍛錬法だ。しかし、私は全く知らない。習ったことがない。なんで伊藤先生は教えてくれなかったんだろう?これも見様見真似でやるしかなかった。そして、武術気功と一文字腰ですでに脚が疲れてぶるぶる震えだした。まだ技の稽古もしていないのに・・・・。「次は手ほどき。」会長が言った。「T君、彼の相手になってあげなさい。」げっ?もしかして徹底的にやっつけられて、自分の実力のなさを思い知らされるのだろうか?キケンな予感がした。手ほどきは伊藤先生から習っていた。しかし、習っていないものもあった。「手ほどき」はその名のとおり、相手に手首をつかまれた場合、それをふりほどく技だ。柔術の基本技だ。もしかしたらT先生にものすごい力で押さえつけられて、いじめられるんだろうか?本部道場との実力の差を思い知らされるのだろうか?「あ、じゃ、やりましょうか。」なんと外見とは全く違うのどかで温かみのある声だ。余計不気味だった。T先生が私の手首をにぎった。「ほいじゃ、まず、はずしてみて。」その時、T先生に捕まれたときの感触は今でも忘れない。外見から想像すれば、万力のような握力でつかまれると思った。しかし、意外にも柔らかく握られた。本当に真綿でくるまれたような感触だ。それに手のひらや指の感触がとても柔らかい。柔らかく握られたうえに、手のひらと指さえも柔らかく感じた。こちらの力が抜けるようだった。こんな感覚ははじめてだ。捕まれた手首を振りほどこうとする意欲が消えてしまう。無意識のうちに・・・・。それでも気力を振り絞って手首を振りほどいた。しかし、振りほどきはしたが、完全にほどかせてもらった感じだ。T先生は素直にほどかせてくれたのだ。実力をみてやろうとか、思い知らせてやろうとか、そういう思いは一切感じなかった。しかし、実戦ならすでに勝負はついていた。柔らかく握られた時点で、私の脳はフリーズして動きは止まってしまった。そこに打つなり蹴るなり、当身を入れられてしまえば、もうどうすることもできない。あとあと考えてみれば、T先生は、手首を握るという事自体が技になっていたということだ。そして私は、手首を握られた時点で金縛りにあったように動きを止められた。べつにT先生と張り合う気持ちはなかったが、それなりに稽古はしているんだということを見てもらいたかった。しかし、完全に技の次元が違っていた。大人と子供のような実力の差だった。