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テーマ:癌(3550)
カテゴリ:私の願い
みなさまこんにちは
とても残念な報告なのですが・・・ 12月21日、冬至の日の午後11時25分、母が逝きました。 19日の金曜日の日に、自宅(実家)に戻り、その日もその翌日も、調子よさそうに、うれしそうにしていてくれたのですが・・・。 21日の晩、9時40分ぐらいに私が実家に行くと、母はソファーに座ってテレビを見ていました。 兄は、疲れが出たのか、ソファーに座ったまま眠っていました。 それから10分ぐらいしてだったでしょうか、母は、 「寝る前に、ちょっとトイレに」 と言って、私の手を借りて立ち上がり、ほとんど私の手も借りず、歩いてトイレに行きました。 しばらく待っても出てこないので、 「お母さん、大丈夫?」 と私が声をかけると、少し間があって、 「大丈夫」 と、返事がありました。 「終わったら呼んでね」 と、私は母に声をかけ、台所のガス台の火がついていたり(私のために兄がスープを温めてくれていたのです)、私の携帯電話のランプが点滅したりしているのに、ちょっと気を取られていました。 10時を少し回ったくらいの時間だったでしょうか・・・トイレの方角から物音がして、母の「もういや~」というようなか細い叫び声が聞こえました。 私が駆け付けると、母が倒れていて、手足をこわばらせていました。 「お母さん!!」 私が叫ぶと、兄が飛んできました。 母は、ちょっとの間だけ、返事もできない状態でしたが、やがて、私や兄の問いかけに、苦しそうに答えました。 兄とふたりがかりで母を抱き上げ、ベッドまで連れて行きました。 在宅の先生に電話をし、すぐに来てくださるとおっしゃいました。 在宅の先生が見えるまで、母は苦しそうでした。 でも私は、まさか母がそのまま亡くなる可能性があるとは、ほとんど思っていませんでした。 私は外に出て、先生を待ったり、星に祈ったりしていました。 冬至だというのに、春一番のような風が吹いて、恐ろしい音を立てていました。 いやな風だと思いました・・・・ 在宅の先生が見えて、母は、きっと楽になり安定するのだと思っていました。 ところが、母の血圧はもう測れないほどに下がってしまっていて、たぶんこのまま戻ってこられないという説明を受けました。 苦しがっていた母は、そのうちに、苦しさを訴えなくなっていました・・・・ 実家から歩いて5分もかからない所に私の家はあり、子どもたちは、寝巻にオーバーを羽織って駆けつけました。 まさか、こんなに早くこんな時が来るとは信じられず、どうしたらいいのか、声もかけられませんでした。 私や兄の手を全く煩わせることなく、たった3日の在宅でした。 家で亡くなったので、旅立ちの支度は、在宅の先生と、サポートして下さったコーディネーターの看護の方がしてくださり、服装は、合唱の衣装にしました。お化粧の仕上げは、兄や子供たちもさせてもらい、私が口紅を塗りました。 母は合唱をしていて、第九の公演などにも出ていたので、その時の衣装で旅立ちました。 25日が友引だったので、お通夜と告別式は25日と26日に行いました。 生前母が、「私の時は、あの式場がいいわ」と言っていた、家から歩いて行かれる式場での葬儀にしました。 数年前にできたばかりの新しい式場で、ご近所の方の葬儀があった時に、母が参列して、きれいでよかったとほめていたところでした。 母の好きなお花で祭壇にして送りました。 亡くなってから葬儀までの間が3日あったので、身内だけでしたが、心を込めて送ることができてよかったと思っています。 家に戻ってから行くまでの日数が、せめてあともう少しあったら…クリスマスを一緒に過ごすことができたら…と思うと、それが心残りですが・・・。 母が逝ってしまうことに対しては、もう、ずっと覚悟はしていて、その日が来ても、もう涙も出ないのではないかと思うくらいに覚悟はできていたつもりでしたが、いざ亡くなってみると、そんな想像をはるかに超えて悲しいです。 せめてあと一週間、一緒にいたかったなと思います。 母は子供のころ両親を亡くし、苦労ばかりしてきました。夫にも早く先立たれ…。 私は成人する前に父を亡くしましたが、母の深い愛情にいつも守られて、父を亡くしてからも、私自身は全く不安を感じることなく、幸せに生きてこられました。母の娘に生まれて、本当に幸せだったと思っています。 葬儀では、あの世でこれからお釈迦様の弟子として修業を始めるというお話でしたが・・・ せめて、あちらではもう苦労なく、極楽に行かせてもらえたらと祈っています。 ←もしよろしければ、1日1クリック♪で応援を! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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