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81歳のブログ

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昭和がブーム、子供の頃の思い出

2005.11.15
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昭和20年、敗戦の年、私は小学校1年生だった。

父はなかなか復員してこなかった。昭和21年が明けた。そのお正月にお餅は食べられなかった。闇で買ってきたもち米はほんのわずかだった。一人に二切れぐらいの餅を“すり鉢とすりこ木”で作った。お父さんが帰ってきたら皆で食べようねと約束して、保管しておいた。しかし、結局、父の帰りを待ちきれなくて、食べてしまったと記憶している。

復員してくると連絡があった。郵便が来たのだと思う。父が帰ってくる日、皆で国鉄長野駅へ歩いて迎えにいった。周りの状況は良く覚えていないが、なんだか恥ずかしくて、私は駅の太い柱の陰に隠れていたことだけを覚えている。

家に帰って、リュックサックから父がお土産を出してくれた。記憶にあるのは、靴下に詰めた乾パンと影絵の人形である。

乾パンは、本人もひもじかったであろうのに、子供のためを思って大事にリュックにしまってきたのだと思われる。そのとき、自分がどう思ったかは覚えていない。しかし、今、思い出すとひとりでに涙が出る。その父は48歳で亡くなった。既に、亡くなって50年が過ぎてしまった。

影絵の人形はインドネシアのナングクワーイであることを、それから50年近く後に、私がタイに来てから知った。ナングクワーイとラーマーヤナ物語については、私のHPを見てください。

ベンチャロン・バナー小

<昭和20年、第2次世界大戦が敗戦に終わった私が小学校1年生の頃の思い出をつづりました。このシリーズは今回でひとまず終了です。>






最終更新日  2005.11.15 07:57:18
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2005.11.14
 昭和20年、敗戦の年、私は小学校1年生だった。

 終戦から大分たった頃、我が家にAさんのご主人が帰ってきた。どうして我が家に来たかというと、Aさんが戦争に行った時に住んでいた家に私たちは引っ越していたのだ。Aさん一家は戦争中にAさんの田舎に移ったのである。それを知らないから、Aさんは元の自分の家に帰ってきた。

 Aさんが戦争に行く前、私たちはAさんの家の隣にいた。だから、Aさんはうちのお袋も良く知っていたのだ。それで、Aさんの家は田舎に移ったけれど、とにかく我が家に上がって一休みしていきなさい、ということになった。

 その時、私が、非常に良く記憶しているのは、Aさんが我が家に上がろうとして靴を脱ごうとしたが、靴がなかなか脱げなかったことだ。

 何ヶ月か、どこからか知らないが、とにかく外国から船に乗って復員してくる間、靴は履きっぱなしだったのだろう。そして、栄養失調で足がむくんでいた。だから、靴の中で足が膨れて、脱げなくなってしまっていたのだ。
 それが、復員船の苛酷な環境を物語っていたと思う。

 どうしても靴が脱げないので、結局、はさみで靴を切って脱がせた。足がどうなっていたのかは見た記憶が無い。また、私の家から自分の家へAさんが何を履いていったのかも覚えていない。

<このシリーズはNHKの『あの日 昭和20年の記憶』に触発されて書いています。あと1回で終わりです。>






最終更新日  2005.11.14 07:37:37
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2005.11.13
 昭和20年、敗戦の年、私は小学校1年生だった。

 いつもお腹をすかせていた。

 ある日、お隣で遊んでいたら、そこのおばさんにドーナッツを貰った。自家製なのだろうが、ドーナッツはドーナッツだ。形がドーナッツだった。

 どういうわけか、家に持ち帰って庭で食べていたら、廊下のガラス戸の向こうにお袋がくるのが見えた。

 今、思い出すと、どうして隠れたのか理由が分からないのだが、多分、私はお腹を壊していたのではないかと思う。だから、何か食べているのをお袋に見られたらいけないと思ったのだと思う。それで、咄嗟に縁の下に隠れた。

 今の家には、縁の下というのは無いだろうが、昔はたいていの家には縁側があった。今は家を建てるとき、コンクリートで基礎を作ってしまうので、床下はコンクリートの壁ではいれない。昔はこのコンクリートの壁は無く、床下は外から自由に入れた。縁側は結構高く、子供ならその下に入るのは容易だった。

 後年、もう10年以上してから、何かの拍子に、お袋はそのことを知っていたことが分かった。ただし、何故隠れたのかいまだに分からない。






最終更新日  2005.11.13 07:52:08
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2005.11.12
 昭和20年、敗戦の年、私は小学校1年生だった。

 私は信州、長野市に住んでいた。我が家は父親が国鉄の技師で、父親は軍属でインドネシアに行っていた。長野市内に住んでいたが、一寸歩けば農村だった。

 敗戦になってからか、その前かしっかりとは覚えていないが、母親と近所のおばさんと一緒に、リヤカーを押して、大分離れた農家にカボチャかサツマイモを買いに行くのを手伝ったことがある。(農家のあるところまでは、距離にして3-4km程度だったようであるが、子供の私には随分遠いところにいったという記憶がある。)

 お米は配給だったと思う。それでは足りないので、カボチャやサツマイモを物々交換するのだ。こちらが持っていくものは着物などだったと思うが、私には具体的なことは分からない。

 兎に角、リヤカーを押して歩いて行ったという記憶だけがある。

 その頃、小学校に持っていくお弁当の中身にお米は無く、カボチャだけだったり、サツマイモだけだったりした。農家の子はお米の弁当を持ってきた。カボチャやサツマイモだけのお弁当は恥ずかしいので、蓋をかぶせてこっそり食べていたという記憶がある。

 敗戦の年の秋だと思うが、裾花川が氾濫した。氾濫した水が畑に流れ込んで、畑がしばらく水に浸かった。このようになると、取れたサツマイモが大きさはちゃんと大きいのだがふかしても柔らかくならない。それを『ごじいも』と言った。全部が固いのではなく、芯ができていて、中のほうになると固くなり、食べるのではなく、かじった。固いので、せっかくのサツマイモも甘くない。買出しにいって交換してきたサツマイモが『ごじいも』で悲しい思いをしたことを覚えている。

『ごじいも』でも、食べるものがあるのは有難いことだと思った記憶がある。
今、孫達を見ていると、彼らは幸せだなあと思う。

 子供に十分食べさせられなかった我々の母親達は悲しく、そして苦労したんだろうなとつくづく思うのだ。






最終更新日  2005.11.12 08:11:27
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2005.11.10
 昭和20年、敗戦の年、私は小学校1年生だった。

 小学校に入ったのは昭和20年の4月だから、まだ戦争中だった。学校へ行くのに防空頭巾をかぶっていった。

 防空頭巾というのは、頭からすっぽりかぶる帽子で、帽子のすそが肩まで全部カバーしていた。中に綿が入っていた。爆撃による破片や何かにぶつかっても怪我をしないためである。本当に効果があるのかは知らないが、これをかぶることになっていたようだ。しかし、それは終戦で終わった。

 8月15日、我が家に近所の人が大勢集まった。まだ、ラジオが普及していない時代で、我が家にはラジオがあったのだ。時間は覚えていない。家の一番広い部屋の鴨居の上辺りの角にラジオがあった。皆そのラジオに向かって直立不動で放送を聴いた。それが、天皇陛下の終戦の詔勅だということは、大人になって放送などで聞き分かった。私の記憶にあるのは、真夏の部屋の中で直立不動で放送を聴いたということだけである。

 戦後になって、教科書が真っ黒に墨で消された。それまで使っていた教科書の、思想的に不都合な部分を筆で塗って消した。自分でやったのか、先生がやったのか記憶が無い。
新しい教科書を作る時間とお金が無かったのだと思っている。

(まだ続きます、こうご期待)






最終更新日  2005.11.10 11:22:58
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2005.11.08
 昭和20年、敗戦の年、私は小学校1年生だった。
私は信州、長野市に住んでいた。

 ある晩、空襲だというので、母、姉、弟と田舎に逃げた。

 私たちの家は長野市内にあり、すぐ傍を流れている「裾花(すそばな)川」の向こうは田んぼのつらなる田舎だった。それで、川にかかる橋を渡って、対岸の田んぼの中を走った。

 その田んぼの中の道には、どういう名前の木か知らないが、かなり高い木が道に添って植わっていた。誰かが“あっ焼夷弾だ!”と叫んだ。焼夷弾とはどういうものか知らないが、とにかくキラキラ光りながら落ちてくるものらしい、ということは知っていた。それで、みんな、少し高いその道の脇の低くなったところにはいつくばった!

 しかし、いつまで待ってもそのキラキラは消えない。そのうちに、誰か、大人が“あれは月じゃないか”と言い出した。落ち着いて見たら、木の葉の向こうにあるのは月だった。

 それからどうしたかなあ?
多分、家族4人、手をつないで家に帰ったんだろうな。






最終更新日  2005.11.08 10:37:48
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2005.11.06
 昭和20年、敗戦の年、私は小学校1年生だった。

 私は信州、長野市に住んでいた。家の庭には防空壕があった。空襲はほとんど無かったが、空爆されたときに逃げ込むために、庭を掘って、隠れる場所を作ったのだ。

 正確な日は覚えていないが、終戦8月15日の少し前のある日、長野市に初めての爆撃があった。

 信州は盆地である。飛行機は私の家の北の山から急降下してきて長野市の中心から西北にある当時の国鉄の車両工場を爆撃したらしい。この飛行機は爆撃機B-29ではなく、戦闘機のような小さい飛行機だったと思う。
 
 空襲は初めてだったので、怖いもの知らずで防空壕から飛行機がキラキラしながら急降下していくのを見ていた。空襲はそれ1回きりだった。幸いに家が焼かれることは無かった。






最終更新日  2005.11.06 19:34:34
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2005.11.04
私の子供の頃の想い出はほぼ60年前である。

第2次世界大戦が終わった昭和20年、私は小学校1年生であった。

いくつかの古い記憶があるが、その順番や時期ははっきりしない。

しかし、それらを単に私の記憶の中に置いておくのではなく、どこかに書き残してみたいと思った。それは、今日TVで、今日本では昭和がブームだという番組を見たためである。

そのような番組では、いわゆる流行した現象は紹介されるだろうが、マイナーな個人の経験は出てこない。しかし、マイナーな個人の想い出の中にこそ普遍的な事実が含まれていることもある。

それで、このタイトルではこれから私の個人的な記憶をたどってみたいと思う。






最終更新日  2005.11.04 12:20:08
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