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カテゴリ:読書
★★★★☆ 本書は経済学の前提とする個人の「合理的な選択」を別の角度から考察する。あとがき(P299)に本書の内容がよく表れているので引用する。 「生存ぎりぎりのところに生きてきた東南アジアの農民にとって、もっとも重要な関心は家族の最低限の生計を守って生き延びていくことにあるとする。それゆえ、平均所得を高めるよりも生活の安定を選好するのであり、抵抗や叛乱に立ち上がるのは、貧困の苦しさよりは、エリートや国家が生存維持を脅かすときなのである。」 「農民の基本的な行動選択はどれだけたくさん生産するかではなく、どれだけの量が手元に残るかによって決まる。」 これは非常に現実的な視点であり、途上国の開発を考える上で有益な気づきを与えてくれる。我々は生産性の向上を問題としがちであるが、生死の狭間に置かれている人々は、リスクの伴う生産性の向上は採用しようとはせず、より安定的で信頼のおける既存の手段を選好するのである。つまり、生産性の向上は二の次で、まずは生存の確保なのである。従って、既存の手段が低い生産しか保障していないとしても、安定的な生が保障される限り彼らはそれを選択する。 彼らにとって、生産性の高い技術がもたらすリスク(生産性のムラ)は、死に直結する危機なのである。既存の技術と比べて、仮に平均して2倍の生産物をもたらす技術があったとしても、一度でも彼らの生存を脅かすようなリスクが含まれるとすれば、彼らはそれを選択できない。そのようなリスクを含むかどうかが自明ではないために、しばしば彼らは同様に高い生産性を持つ技術を採用できない。 一見、非合理に見える彼らの選択も、彼らなりの合理性を持っているのである。 「見かけでは奇妙な村落の慣行の多くは、偽装された保険としての意味をもっている」(P7) 生存限界に暮らす人々が、自給生産から商品生産に転換できない理由も同様である。商品生産を行うことは、自らコントロールできない範囲が拡大することであり、彼らの安全を脅かす要素となる。生産を自らの手の範囲においておく、これも農村における安全確保の選択なのである。 「農民の企業家的野心がいかに強かろうと、生存を脅かすような商品作物の導入を農民の理性は排除する」(P27) 農民だけでなく生存限界に近い商人も生存維持のための工夫をしている。 「危険を分散するために、全部の商品を一人の客にだけ売るようなことはしない。」(P28)たとえ、その客が高額な支払をしてくれるとしてもである。 (そういう危険分散法は農村出身の貧民のあいだにも見られる。彼らは複数の雑業に従事することで、仕事をまったく失ってしまう危険を最小限にとどめ、失業の危険に対応しようとする(P28)) 納税に対する姿勢からも彼らの思考をみることができる。 「農民の爆発的犯反抗を引き起こすのは、豊作の年の40%の小作料ではなく、不作の年の20%の小作料なのだ」(P33) 課税の仕方は住民の生活に大きな影響を与える。生産物に対して一定の割合の課税をするよりも、生産物の大半を収奪し、住民の手元に常に小額の量しか残さない手法が好まれる場合もある。それは住民の労働意欲を削ぐかもしれないが、貧しくとも一定の量が保障されるという意味で、生存を確保される仕組みであるからだ。 「農民の政治について深く知りたければ、彼らがどれほど貧しいかばかりでなく、彼らの生計がどれほど不安定なものかを、問題にしなくてはならない」(P38) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年02月05日 11時55分20秒
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