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カテゴリ:郷土の歴史と文化
写真上:遠江国分寺跡に咲いている梅花
磐田市見付.遠江国分寺跡
磐田市見付淡海国玉神社に参拝に行きましたので、近くにあります有名な遠江国分寺跡に寄りました。ご紹介します。 遠江国となるのは和銅六年(713)のことで、諸国郡郷の名には好字二字をもって地名をあらわそうとする統一的な施策の結果です。 古代では、地方の豪族は国造(くにのみやっこ)と呼ばれていました。 ここで古代における遠江国造(くにのみやっこ)を調べています。 古事記では 遠江国造として天孫系の天照大神の子.天穂日尊の子.武比良鳥尊(たけひらとりのみこと)という名を挙げ、そこに遠江国造の租なりとしているようです。いわゆる遠江国造の租は天孫系です。 また一方、国造本紀にみえている主なものを挙げてみます。 1. 遠淡海国造(敷智郡?=浜松あたり) 成務天皇の時 物部連の祖先、伊香色雄命の孫、印岐美(いきみ)命 2. 久努国造(山名郡?=磐田あたり) 仲哀天皇の時 伊香色雄命の孫、印播足尼(いにはのすくね) 3. 素賀国造(佐野郡?=掛川あたり?) 神武天皇の時 美志印(みしいに)命 こちらは、遠江国造は物部氏系です。 このあたりは、これから遠江国の延喜式内社を調べていくうちに少しは見えてくるのではと考えています。 大宝元年(701年)に大宝律令が制定され律令体制が確立していきます。 律令政治体制は天皇を至尊至高の地位に仰ぐ強力な中央集権的官僚政治の体制です。 地方行政組織は国-郡-郷に整えられていきます。 国には国司(中央から派遣された任期交替制)が郡には郡司(旧国造クラス)郷には郷司が配置されたのです。 遠江国は磐田市見付あたりを国府(現在の県庁?)と定めたようです。 この国府に中央政権から国司が派遣され、各郡司を統括したのです。 磐田市見付あたりの地図 奈良時代天平十三年(741)、聖武天皇の詔により、全国66ヶ国66ヶ所に国家安泰、人民安寧を願って国分寺を建立されました。 その総元締めは奈良.東大寺です。 遠江国分寺跡近くに万葉集の歌碑があります。 それによりますと遠江守(国司)桜井王が聖武天皇に奉った歌が見えています。 この桜井王は天武天皇の子孫で、天平十一年(739)に大原真人の性を賜っていますから、おそらく天平初年に遠江守(国司)であったと思われます。 遠江国分寺跡 写真の手前南側から 七重の塔跡 金堂跡 講堂跡 となっています。 国分寺の総元締め東大寺の鎮守として手向山八幡宮があります。 奈良時代、聖武天皇が大仏を造営した時に、宇佐八幡宮を東大寺大仏守護神として勧請しています。 ここ遠江国分寺にはその鎮守としては府八幡宮です。 勿論、大分の宇佐八幡を勧請したものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.01.16 07:17:39
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