クチベニシラン
空襲第二次世界大戦でアメリカ軍が日本本土に投下した爆弾・焼夷弾の総重量は16万1,425トンで、その空襲は353回にわたり、延べ5万1,903機に及んだ。米空軍は7月、各地に「日本国民に告ぐ」の題名で、リーフレットをまきながら都市や軍事施設を爆撃した。中小都市空襲は昭和20年6月から終戦の前日まで続き、北は北海道から南は九州鹿児島まで日本全土にわたった。6月17日以降、B29爆撃機が100~150機に分かれ、本土の中小都市を2、3都市ずつしらみつぶしに爆撃するようになった。中小都市空襲の第13回として676機が出撃し、富山・長岡・水戸・八王子の四都市を同時に攻撃した。昭和20年8月1日、テニアン島より米軍第313爆撃飛行団が発進。日本本土空襲のためにマリアナ基地を飛び立った米軍の爆撃機B29は815機。長岡、水戸、八王子、富山の四都市が攻撃目標だった。この日の空襲は基地が保有する全機に出撃が命令され、「世界史上最大の空襲」と称されるほど大規模であった。これは、3月10日の東京大空襲を皮切りに、日本の都市を次々と焦土にした作戦を指揮した第20航空軍司令官カーチス・ルメイ少将の戦略航空軍司令部への栄転と、米陸軍航空隊創立記念日の祝賀とを兼ねた攻撃であった。昭和20年8月1日の日本空襲は、全航空軍団を投入した。8月1日深夜、B29は水戸、富山、八王子、長岡をいっせいに空爆した。八王子市は一日深夜から二日未明の169機の空襲によって2,900名が死傷した。これらの焼夷弾による無差別爆撃によって、計12,000人の死者を出し、これらの四都市は、ほとんど壊滅した。この他にも福山、郡山、豊川が空襲の犠牲となった。空襲の翌日の「ニューヨークタイムズ」は、1日の長岡・富山・水戸・八王子の四都市の爆撃に用いた爆弾の総量が、1回の空襲では世界最大であったと報じた。