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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(千葉編)
南総里見八犬伝では、「八房」生誕の地として「犬掛」の名前が出てきます。
犬掛にある八房像 もちろん南総里見八犬伝はフィクションですが、実際の歴史でも犬掛は里見氏にとって因縁深い場所であり、戦国時代の里見氏の歴史では「犬掛の戦い」として登場する場所です。 犬掛の遠景 南房総の中央部を南北に通る平久里街道沿いにあります。 犬掛の戦いは、里見氏第4代の里見義豊と第5代の里見義尭の、従兄弟同士の間で起こった里見氏の内紛「天文の内訌」によるものですが、この両者の間で戦いが行われたのが「犬掛」でした。 里見家第4代当主であった里見義豊は、里見氏第3代当主の父里見義通が亡くなった後に家督を継ぎ、稲村城に入城しました。 里見義通の弟で、里見義豊の叔父である里見実尭とその息子里見義尭は、金谷城へ入っていました。 この時に上総進出を狙う小田原城の北条氏綱は、当主の里見義豊を排除するべく、里見実尭と実尭の側近正木通綱に接近していきました。 この里見実尭・正木通綱・北条氏綱の動きに危機感を抱いた里見義豊が、叔父の里見実堯と側近の正木通綱を稲村城に呼び出して誅殺したことが戦いの発端です。 さらに里見義豊は、里見実尭の息子である里見義尭も攻めるべく、義尭の居城であった金谷城にも攻め込んできました。 一方、父里見実尭を殺害された息子の里見義尭も、同じく稲村城で殺害された正木通綱の息子、正木時茂・時忠と共に、父の敵である義豊を討つべく決起しました。 そして里見義尭軍は造海城に籠城し、それまで里見氏の宿敵であった北条氏綱に援軍を求め、北条氏綱も要請に応じて造海城に援軍を送って来ました。 そして里見義尭・正木兄弟・北条の連合軍と里見義豊軍が激突したのが「犬掛」の地であり、この「犬掛の戦い」で里見義豊は討ち死にしています。 犬掛にある里見義豊の墓所 元々廃寺となった大雲寺にあったものをここに移したものです。 戦いの結果は里見義尭の勝利で終わり、里見義尭は里見第5代の当主となりました。 道端の小さな石碑だけがその戦場の跡を示していました。 これまでは、「里見義尭が父の敵討ちのため、やむなく北条氏綱に援軍を求めて挙兵した」との、里見義尭よりの説が有力でした。 しかしながら近年の研究では、これは北条氏綱と組んだ里見義尭のクーデターだったと言われています。 里見氏の宿敵である北条氏と組んで里見氏の当主を討ったこと、さらには後の「第一次国府台合戦」で、里見義尭は北条氏綱を裏切ることになるため、里見義尭としては何ともバツの悪い話ばかりです。 いずれにしても、里見義尭はこの戦い以降房総全域へと勢力を伸ばし、里見氏の全盛期を迎えました。 関連の記事 稲村城→こちら 金谷城→こちら 造海城→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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