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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(山口編)
日本三名橋の1つに数えられる錦帯橋と、錦川の清流を挟んだ城山の山頂に見える岩国城の天守、この構図は観光案内などでよく見かける光景です。
実は岩国城の天守は復興模擬天守で、この天守が後に物議を醸すことになりました。 岩国城は錦川が大きく蛇行して囲む横山にあり、山麓部と山頂部に城郭がありました。 ちなみに旧山陽道は玖珂宿から欽明路峠を越えて、岩国城からずっと離れた場所を通っています。 しかも岩国城のある横山背後の搦め手方向になるため、岩国の城下町を通っていません。 旧山陽道の旅人が岩国城の城下や錦帯橋へ行くには、一旦街道から外れて寄り道をする必要がありそうです。 城下町から岩国城へは、錦帯橋を渡らなければ行けないようになっていました。 錦帯橋を渡った横山の山麓には岩国藩の居館が置かれ、現在その跡は吉香公園として整備されています。 1674年に岩国藩第三代の吉川広嘉によって完成して以後、昭和25年のキジヤ台風で流失するまでの間、錦帯橋は一度も流失することはありませんでした。 吉香公園内にある吉川広嘉像 藩主の居館があった山麓部には、内堀や武家屋敷なども一部残っていました。 香川家長屋門 錦雲閣と内堀 岩国城の櫓を模して、明治になってから建てられたものです。 佐々木小次郎像。 佐々木小次郎の出生については諸説ありますが、吉川英治の「宮本武蔵」では周防国岩国とされています。 また岩国にはアオダイショウが突然変異した「白ヘビ」がおり、吉香公園内で飼育されています。 天然記念物に指定されています。 爬虫類が大の苦手なので、いくら天然記念物で縁起物でも、じっと眺めることはできませんでした。 天守のある横山山頂へは徒歩で登ることもできますが、ロープウェーが往復しており、錦帯橋とセットでチケットを買うと割引となります。 ロープウェーの中から見た吉香公園 ロープウェー山頂駅から見た岩国市街地 蛇行する錦川の向こうには、瀬戸内海に浮かぶ島々や四国山地が一望できました。 ロープウェーの山頂駅から本丸までは登城道を上っていきますが、途中には石垣や土塀で囲まれた曲輪の跡がありました。 野面積の石垣 虎口付近の石垣 本丸に入ると南蛮風の天守がすぐ目に入りますが、実はこの復元天守が後に岩国城の運命を危うくするところでした。 この天守は昭和37年に復元されたものですが、本来の天守閣があった場所とは違う位置に建てられており、本来天守閣があった場所には、ちゃんと天守台が残っていました。 天守台 こちらも一部復元です 岩国城は「復元整備に問題あり」とのことで、(財)日本城郭協会の「日本100名城」から危うく落選するところでした。 (「復元整備」とは、間違いなく天守のことだと思います) しかしながら「総構」が評価され、見事100名城に選ばれています。(「日本100名城公式ガイドブック」より) 横山山頂の城郭は詰城として築城されたものだと思われますが、その天守台の周囲を探索してみると、戦国山城のような遺構が残っていました。 搦め手方向の空堀跡 土塁もはっきりと残っており、総構は納得です。 1600年の関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は、防長二カ国に減封されたため、本拠地も広島城から萩城へと移してきました。 (この時に毛利家存続のために奔走したのが、毛利の分家で毛利元就の「三子教訓状」にある毛利両川の1つである吉川家です) 吉川家の当主である吉川広家も毛利本家の移封に伴って米子から岩国に減封となり、ここで岩国城の築城を始めました。 築城当時の天守は1608年に完成したものの、わずか7年後の1615年に「一国一城令」によって山頂部の城郭は破却され、天守台を残すのみとなりました。 (物議を醸した割には短命で終わったようです) 復元天守が元々の天守台に建てられなかった理由ですが、錦帯橋からの見栄えがよくなかったからだそうです。 (財)日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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