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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(佐賀・長崎編)
平戸城は亀岡と呼ばれる丘陵上にあり、平戸の瀬戸を背にして、入り江の入口から城下町を見下ろしている感じです。
平戸城の遠景 (オランダ商館より) 平戸城のある丘陵部の西側には、まるで天然の外堀のように川が流れており、城内との間には石橋の「幸橋」が架かっていました。 幸橋 1702年に建造されたもので、オランダ商館の建設に携わった石工の技術が伝わっているそうです。 幸橋のある西側を大手と見るのが妥当な気もしますが、縄張りそのものは南へ曲輪が延びる形となっており、元々の大手は南側にあったのかも知れません。 丘陵部には三の丸から本丸までの曲輪が配されていましたが、三の丸の跡はグランドや市役所の敷地となっており、二の丸は亀岡神社の境内となっていました。 二の丸 二の丸には虎口の跡が2つ残っており、幸橋のある西側と大手のある南側に門があったようです。 二の丸西側の方啓門跡 二の丸南側の二ノ大手門跡 いずれも枡形になっていましたが、名前からしても南側が大手のような感じです。 平戸城の建物は明治に入ってから取り壊されましたが、現在は櫓や門などが復元されていました。 乾櫓 ここが天守の代用とされていたようです。 地蔵坂櫓 地蔵坂櫓からは狭間の切られた土塀が続いており、この土塀は現存するものかも知れません。 地蔵坂櫓から続く土塀の先には北虎口門があり、搦め手門ながら現存する唯一の門です。 北虎口門 櫓門形式ですが、渡櫓の窓が現代風なのが気になります。 北虎口門の先から本丸に入って行くのですが、ここに料金所があって、本丸に入るのが有料でした。 料金所の先には狸櫓があり、こちろも現存する唯一の櫓です。 狸櫓 元々は多聞櫓と呼ばれていましたが、櫓に住んでいた狸の伝説に由来しており、狸櫓の方が一般的な呼び名となっています。 多聞櫓を修復するにあたって櫓の床を剥したところ、住んでいた狸が藩主の枕元に現れたそうです。 このまま櫓に住ませてくれると城をずっと守ると言うので、翌日床を元通りにしたとのことです。 なんだか微笑ましい話ですが、こんな伝説の中に松浦氏と平戸城が慕われていたことがわかるように思います。 狸櫓の先には櫓門があり、ここが本丸の虎口のようです。 あまりに唐突に櫓門があったので、びっくりしました。 櫓門の先にはさらに石垣があり、三階建ての天守が目の前に現れました。 元々本丸には天守が上げられていなかったようで、後世になって建てられた模擬天守です。 史実に基づかない模擬天守ほど恨めしいものはないのですが、さすがにここからは平戸ノ瀬戸が一望できました。 入り江の対岸にはオランダ商館があり、水平線の先には同じ松浦氏の領土であった壱岐の島が浮かんでいました。 平戸城は肥前の豪族松浦氏の流れを汲む、4代目平戸藩主松浦鎮信(天祥)によって、1702年に築城されました。 江戸時代に入ってからの新規築城は珍しいケースだと思いますが、幸橋の建造も同じ時なので、この時に大手口が改変されたのかも知れません。 元々は初代の松浦鎮信(法印)が、文禄・慶長の役の後の1599年に、この地に日の岳城を築いたのが始まりとされています。 日の岳城は大火で焼失しましたが、豊臣方であった松浦鎮信が江戸幕府に遠慮して自ら火を放ったとも言われています。 オランダ商館にある松浦(法印)鎮信像 松浦法印鎮信は初代平戸藩主でありますが、平安時代から続く松浦氏としては26代目にあたります。 ちなみに松浦の地名の歴史も古く、魏志倭人伝に出てくる末蘆国の地名も松浦だとされています。 現在の平戸城を築城した松浦(天祥)鎮信(4代目藩主)は、山鹿素行の弟子でもあり、平戸城は山鹿流の築城だそうです。 江戸時代も半ばになってからの軍学師がどれほどのものかはよくわかりませんが、平戸城の縄張りを見る限りでは、平和な時代に築かれた城のような印象がありました。 (財)日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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