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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(山口編)
右田ヶ岳城に続いてこの日2つめの山城は、右田ヶ岳から佐波川を挟んで東へ約4km、双耳峰の矢筈ヶ岳にある敷山城です。
右田ヶ岳から見た矢筈ヶ岳 矢筈ヶ岳の登山口までは狭いながらも車道がついていて、200mほど標高を稼ぐことができました。 矢筈が岳の登山口から敷山城跡まではさらに標高差100mほど、道のりにして400mほどの距離にあります。 ところで「敷山城跡」とはなっているものの、元々は「敷山験観寺十二坊」の寺院跡でした。 建武新政の太平記の時代に「敷山の戦い」の舞台となったため、戦闘拠点としての敷山城の名称があるものと思われます。 登城道の途中には、土塁や腰曲輪の跡らしきものが見受けられました。 土塁(?)跡 験観寺の時代からあるものかどうかは不明ですが、鎌倉時代の中世山城の虎口のようにも見受けられます。 腰曲輪(?)跡 斜面に築かれた削平地ですが、位置からすると物見台があったのでしょうか。 しばらく木々の間を抜けていくと突然視界が開け、目の前には「梵字岩」と名付けられた巨岩がありました 「金輪聖王 天長地久 文永二年乙丑五月」と刻まれており、1265年の建立となります。 建立から9年後の1274年に元寇(文永の役)が起こっていることから、元の侵略に対して国家の安全を祈願したとも言われています。 梵字岩からは眺望が開けており、かつての周防国の中心地、国府のあった防府の市内を望むことができました。 手前に石桶のような物がありますが、こちらは「昭和十二年」の銘があって、かなり後世のものでした。 梵字岩から少し登ると石段が現れて、横に「敷山城跡」の碑がありました。 石段の先には削平地と鳥居と祠があり、ここが敷山験観寺本堂跡であり、敷山城の本丸となります。 ここが験観寺十二坊の最頂上、現在も僧坊の礎石の跡が残っていました。 矢筈ヶ岳の八合目にあり、標高461mの矢筈ヶ岳山頂までは比高差150mを残すだけですが、ここで撤退して引き返しました。 験観寺が戦いの舞台となり、城郭として機能したのは1335年のことで、足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、九州で挙兵をして再び京都に攻め上った時でした。 この時、周防国府の役人であった摂津助公清尊、検非違使の助法眼教乗は後醍醐天皇方につき、周防国の武将を集めて挙兵したのが、この敷山城です。 足利尊氏の命によって、石見国守護である上野頼兼が敷山城を攻撃、摂津助公清尊と助法眼教乗は敗北を喫して自刃しました。 現在でも毎年8月になると、「敷山の戦い」の慰霊祭が行われています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/02 05:26:54 AM
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