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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(東京編)
平戸藩松浦氏が「馬鹿囃子」を追いかけて音源を見失った先が「南割下水」でした。
南割下水は雨水を川に排水するために開削された排水路で、現在の両国から錦糸町まで、東西に延びる排水路です。 ![]() 幕末の江戸の地図にも南割下水の水路を見ることができます。 当時の南割下水は幅が1間(1.8m)から2間(3.6m)ほどの細い水路で、水も淀んだ暗い場所だったようです。 本所七不思議も南割下水沿いに集中していることからも、相当薄気味悪い場所だったことがうかがえます。 その南割下水には、夜鳴き蕎麦の屋台が出ていました。 ところがいつ行っても誰もおらず、明かりだけが点いているというのが、本所七不思議の1つ「消えずの行灯」です。 ![]() タヌキかムジナのような動物が描かれていますが、江戸時代では不思議なことが起こるとタヌキの仕業だとされていたようです。 「消えずの行灯」の話はさほど不思議でもないような気がして、商売っ気のない店の主人が片手間に夜鳴き蕎麦屋を営んでいただけの話かも知れません。 それでも逆バージョンの話もあるようで、いつも誰もいなくて明かりも点いていない屋台があって、通りがかりの人が親切に明かりを点けてあげると、その人に災いが降りかかるという、こちらはとんでもない話です。 南割下水は昭和になって埋め立てられ、現在は「北斎通り」の舗装道路となっています。 ![]() その名の通り葛飾北斎が生まれた場所に因んでこの名前が付いています。 南割下水に面したところには、弘前藩主津軽越中守の上屋敷があり、「津軽の太鼓」の舞台でもあります。 ![]() 画像上側が南で、下側が北になります。 ![]() 現在の弘前藩津軽越中守の上屋敷跡 「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるように、火事の多い江戸の大名屋敷には、必ず火の見櫓が建っていました。 火の見櫓には「板木」があって、火事の時には板木を叩いて急を知らせていました。 ところが弘前藩の屋敷だけは、他の大名屋敷とは違って板木ではなく太鼓を使っており、「これは不思議だ」ということになったようです。 火事を知らせるのに板木ではなく太鼓を使ったところで、「だから何なの?」と思われるかも知れませんが、私も全く同感です。 (むしろ太鼓の方がわかりやすくていいかも知れません) 実は「本所七不思議」のエピソードは九つあって、この「津軽の太鼓」は本所七不思議に入ったり入らなかったりといった話になっています。 その津軽越中守上屋敷跡から、南割下水跡である北斎通りを東の錦糸町方面に向かっていくと、亀沢の「足洗い屋敷」の旗本の屋敷跡に来ました。 ![]() 「足洗い屋敷」の方は本所七不思議のレギュラーなのですが、これがまたとんでもない話です。 ![]() 夜中の丑三つ刻になると、突然天井から足が現れて、「洗え、洗え」と命じてくるとのことでした。 足を洗ってやると素直に足を引っ込めるのですが、洗わないでいるとまた同じことが起こるので、この旗本はついに屋敷を代えたそうです。 足を洗うとか洗わないとか言うのもさることながら、天井から足が現れるなんて、七不思議とか言う以前に、もはや事件ではないでしょうか。 しかも旗本屋敷の天井から足が現れたとなると、絵島事件や浅野内匠頭の刃傷事件も影を潜めてしまいそうです。 この旗本は大真面目に訴え出て、それを聞いた幕府も大真面目に屋敷代えを許可したそうで、全く意味不明です。 「夜毎に天井から足が出るとは尋常ではないが、これは致し方あるまい。屋敷代えを認める。」なんて言っていたのでしょうか。 関連の記事 本所七不思議めぐり~その1→こちら 本所七不思議めぐり~その2→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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ヴェルデ0205さん
本所も何気なく通っていながら、七不思議を追いかけてみると色々な発見がありました。 それにしても「足洗い屋敷」だけは、もはやギャグですね(笑い) (2012/09/17 09:30:54 PM) |