|
テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(新潟・富山・石川・福井編)
南北朝時代・戦国時代と、2度に渡る有名な攻防戦の舞台となったのが金ヶ崎城でした。
金崎古戦場の碑 敦賀港を望む東側の丘陵部に城跡があり、太平記にも「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」との記述があります。 金ヶ崎城から見た敦賀港 まさに太平記の時代の1336年、後醍醐天皇の命を受けた南朝方の新田義貞が、尊良親王と恒良親王の2人の皇子を奉じて入城したのが金ヶ崎城でした。 足利尊氏の北朝方は、越前国守護であった斯波高経が金ヶ崎城を包囲、南北朝の間で激しい攻防戦が繰り広げられました。 約半年にわたる籠城戦でしたが、金ヶ崎城は落城し、尊良親王と新田義顕(新田義貞の長男)は自刃して南朝方の敗北で終わりました。 金ヶ崎城跡にある金崎宮 祭神は尊良親王と恒良親王です。 尊良親王の「御墓所見込地」 同じく城跡にある絹掛神社 総大将であった新田義顕以下321名の将兵が祀られています。 その新田義顕が自刃した金前寺は、金ヶ崎城の山麓にありました。 伽藍は戦国時代の戦いで焼失しましたが、新田義顕が自刃したのが、ここの観音堂になります。 新田義貞は金ヶ崎城から逃れたようですが、1338年に越前で討死し、坂井市の称名寺に墓所があります。 時代は下って戦国時代、「金ヶ崎退き口」として一躍名を馳せたのが、木下藤吉郎(豊臣秀吉)でした。 越前一乗谷の朝倉義景討伐のため、織田信長は徳川家康と連合軍を組んで金ヶ崎城まで進軍して来たものの、妹婿である浅井長政が朝倉方についたとの知らせが入りました。 織田信長の妹で浅井長政夫人であったお市の方が、小豆の入った袋の両方を縛って謎をかけたのも有名な話かと思います。 前後に敵を受けた織田信長は退却戦を余儀なくされますが、その時に殿を務めたのが、当時は駆け出しの木下藤吉郎でした。 そんな歴史の奔流にあった金ヶ崎城ですが、本丸のあった場所は月見崎と呼ばれ、月見御殿があったとされています。 南北朝時代も戦国時代も、武将たちが日本海に浮かぶ月を眺めていたのでしょうか。 また松尾芭蕉も「おくのほそ道」で越前を訪れており、金ヶ崎城の山麓には芭蕉塚があります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013/06/21 10:32:41 AM
コメント(0) | コメントを書く
[城跡と史跡(新潟・富山・石川・福井編)] カテゴリの最新記事
|