|
テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(東京編)
名所江戸百景にも描かれた八景坂 (現在の池上通り)を上がって行くと、歩道の脇に史跡を示す碑が建っていました。
![]() 日本史の最初の方ではおなじみの「大森貝塚」の碑ですが、意外とコンパクトにまとまっています。 案内の矢印があり、ビルの狭い間を抜けるようにしてビルの階段を普通に降りていくと、ビルの通用口のような場所に史跡の解説板がありました。 ![]() 「大山鳴動 鼠一匹」とは言いますが、日本史ではあんなに大騒ぎしながら、なんだか拍子抜けした感じです。 ビルのすぐそばを東海道本線と京浜東北線の線路が通っており、線路のフェンスぎりぎりにも碑がありました。 ![]() 「大森貝墟」と読めます なんともあっけない感じでしたが、再びビルの階段を登って池上通りに戻ると、「300mほど行ったところ(品川区)にも大森貝塚がある」旨のことが書かれていました。 大森貝塚が2つもあるとは奇特な話ですが、再び池上通りを歩いて行くと、今度は大きな史跡公園にたどり着きました。 ![]() 今度は「大森貝塚遺跡庭園」とあって、歴史公園として整備されているものの、場所的には大森ではなく、大井に近いかと思います。(行政区分でも品川区です) 大森貝塚と言えばモース、モースと言えば大森貝塚と言った感じですが、エドワード・モースが大森貝塚を発見したのは、1877年のことでした。 横浜から新橋まで汽車で向かう途中、大森駅付近で線路脇の崖に貝塚があるのを発見したそうです。 ![]() エドワード・モース像(大森貝塚遺跡庭園) ![]() 縄文時代の海岸線(大森貝塚遺跡庭園) 現在はすぐ下を東海道本線が通っています。 モース博士は動物学者だったようですが、大森貝塚の発見がまさに考古学の幕開けと言っても過言ではないと思います。 大森貝塚は「考古学発祥の地」と言われており、実際に「縄文時代」の名称は、大森貝塚から出土した土器に由来しています。 モース博士は”Shell Mounds of Omori”の発掘報告書を出版しましたが、「大森」の地名はあるものの、具体的な場所までは明らかにされていなかったようです。 大森貝塚の場所を巡っての混乱が続いたものの、モース博士の発見からちょうど100年経った1977年に公文書が見つかり、大森貝塚の発見場所は「大井鹿島谷二千九百六十番地」であったことが明らかになったそうです。 実は大森貝塚の場所は大森ではなく、現在の品川区大井、すなわち「大森貝塚遺跡庭園」にあったようです。 ![]() 大森貝塚遺跡庭園にある貝塚の発掘跡 具体的に大森貝塚の場所が明らかになった後、大森貝塚の付近を発掘調査したところ、住居跡や土器・石器・装身具、さらには人骨や獣骨なども発見されました。 大森貝塚での出土品は、一部品川歴史館に展示してあります。 ![]() 出土した貝殻 会議用のテーブルの上に、普通に並べてあるのが衝撃です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014/03/08 03:00:56 PM
コメント(0) | コメントを書く
[城跡と史跡(東京編)] カテゴリの最新記事
|