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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(東京編)
足利尊氏が室町幕府の将軍となった後、各国に1寺ずつ「安国寺」を建立したことは、あまり知られていないかも知れません。
その安国寺のうち、甲州街道府中宿の街道筋にある高安寺が、武蔵国に建立された安国寺に位置付けられています。 高安寺山門 本堂 扁額には「等持院」と書かれており、足利尊氏とのゆかりを感じます。 足利尊氏によって再建される以前、ここは市川山見性寺という寺院でした。 さらにそれ以前の平安時代には、「俵藤太」の藤原秀郷の居館があったそうです。 武蔵国府中で藤原秀郷の名前を見るのはあまりに意外なので、「はるか唐沢山城は何だったのだろう?」などと思ったほどです。 平将門を討伐した功績によって下野守となった後、藤原秀郷は武蔵守も兼任していたようで、そう考えると武蔵国府のあった府中に居館がある方が自然な気もします。 高安寺の本堂奥には「秀郷稲荷」があり、藤原秀郷が鎮守として祀られています。 藤原秀郷が居館を置いていた当時は、方形の一重堀で囲まれた中世の武士館だったと思われますが、現在となってはその面影もありません。 その秀郷稲荷には矢印の案内標識があり、「弁慶硯の井」とありました。 俵藤太の藤原秀郷もさることながらが、弁慶もまた各地で伝説の多い人です。 「俵藤太の次は弁慶か…」などと思いつつ、まずは行ってみることにしました。 弁慶硯の井 源義経が源頼朝の怒りに触れて鎌倉入りが許されなかった時、京都へ帰る途中で当時見性寺であったこの場所にとどまり、弁慶とともにこの水を汲んで赦免祈願の写経をしたと言われています。 鎌倉街道からも近いこの地にあって、これも何となく真実味のありそうな話ではあります。 時代は下って太平記の時代、足利尊氏と同じく鎌倉幕府の討幕軍を率いていた新田義貞は、分倍河原で鎌倉幕府軍との戦いになった時、ここに本陣を置いていたようです。 (新田義貞も、稲村ヶ崎を歩いて渡った伝説の持ち主ですが) 足利尊氏が各国に安国寺を建立したのは、後醍醐天皇をはじめとする戦没者の供養が目的でした。 時代によっては「逆臣」・「逆賊」とされてきた足利尊氏ですが、同時代を生きた他の武将と同じく、この時代ならではの苦悩を持っていたのでしょうか。 後世になって、室町幕府足利氏と鎌倉公方足利氏との争いや、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の争いなどで、この高安寺も戦火で伽藍を焼失してしまったようです。 足利尊氏の建立の願いとは裏腹に、全く皮肉な結果としか言いようがありません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014/12/23 10:56:44 PM
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