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テーマ:城跡めぐり(1247)
カテゴリ:城跡と史跡(群馬編)
沼田城に続き、名胡桃城を訪れるのも9年ぶりです。
沼田城から見た名胡桃城 名胡桃城のある群馬県みなかみ町は上州でも最北端にあり、国境を越えれば越後の国、上杉氏の本領です。 沼田城に続き、こちらも大河ドラマ「真田丸」の影響でしょうか、随分と様変わりしていました(いい意味で)。 前回訪城時は野花が咲き誇る広い野原のような感じでしたが、名胡桃城跡案内所が出来て資料も展示してあります。 縄張の模型図 縄張図 連郭式のシンプルな縄張で、どこにでもありそうな戦国山城です。 しかしながらこの城が戦国時代の関東の勢力図を大きく変えることとなり、関東での戦国時代を終わらせる結果となりました。 三の丸の馬出跡 関東にありながら北条流の角馬出ではなく、三日月堀で囲まれた武田流の丸馬出です。 ということは、真田昌幸の築城時代の遺構でしょうか。 三の丸虎口 三の丸の堀切 遺構がとてもよく残っています。、 遺構の各所には案内板が立ち、発掘調査の詳細な結果が紹介されていました。 二の丸虎口 木橋が復元されていますが、斜めに架けられていて、直進できないようになっています。 土橋から空堀を眺めてみると、三の丸側と二の丸側では傾斜も高さも違っており、三の丸の大手口から二の丸は見通せない縄張になっていました。 二の丸空堀 左側が三の丸で、右側が二の丸です。 このあたりはさすが真田昌幸といったところでしょうか。 二の丸は三の丸に比べて奥行きがあり、掘立式の建物も建っていたようです。 掘立式の礎石跡 籠城戦となった時、ここが実質的な戦闘指揮所だったでしょうか。 二の丸と本丸の間にも木橋が架けられていて、こちらも喰い違い虎口になっていました。 本丸の堀切の法面はさらに険しくなっており、ここを攻め上がるのはかなり難しそうです。 その本丸には昭和2年に建てられた城址碑があり、碑文は徳富蘇峰によるものです。 城址碑 地元の有志で結成された保存会によって、大正12年より保存活動が行われてきました。 大河ドラマの影響もあるでしょうが、長く地道な発掘調査により、より当時に近い姿に復元されていると思います。 史実にない模擬天守などを建てるのではなく、名胡桃城のように歴史に忠実に復元することこそ、将来に向けての有効な時間とお金の使い方だと思います。 名胡桃城は沼田城の支城として、沼田氏によって築かれました。 沼田地方は、上野(群馬県)にありながら、越後(新潟県)や信濃(長野県)との国境に近いため、北条氏・上杉氏・武田氏の三者が入り乱れての争奪戦が繰り広げられていました。 沼田氏を滅ぼした後に勢力を張っていたのが真田昌幸で、武田信玄・上杉謙信亡き後は、代って真田昌幸が北条氏との戦いに奮闘していました。 やがて沼田城が北条氏の手に落ちると、真田昌幸が沼田城を奪還するために築いたのが名胡桃城です。 真田氏と北条氏の間では激しい争奪戦が繰り広げられたのですが、その調停役に入ったのが豊臣秀吉でありました。 1589年に豊臣秀吉は、沼田城を北条氏の領有、名胡桃城は真田氏の領有とする裁定を下しました。 しかしながらこの裁定に反して、北条方の沼田城代であった猪俣邦憲が、真田氏の名胡桃城を攻略しました。 真田昌幸もさることながら、これに激怒したのは豊臣秀吉で、「惣無事令」に反するとして、ついに北条氏征伐を決定しました。 その後の関東の勢力図は歴史のよく知るところで、これがきっかけとなって「小田原攻め」に発展し、1590年に関東の覇者北条氏は滅亡し、徳川家康が入封してきました。 関東の勢力図を塗り替えるとともに、関東の戦国時代に終わりを告げるきっかけとなったのが、この名胡桃城です。 日本城郭協会「続日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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