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テーマ:城跡めぐり(1258)
奥州の要衝である会津にあって、会津若松城の支城として運命を共にしてきたのが猪苗代城(亀ヶ城)でしょうか。
会津若松城までの距離は直線で約20kmしかなく、しかも途中を隔てる大きな山地もありません。 したがって会津に侵入した敵に猪苗代城を抜かれると、本拠地の会津若松もすぐに落されてしまうほど重要な拠点でした。 本城の会津若松城の別名が「鶴ヶ城」ならば、支城の猪苗代城の別名は「亀ヶ城」と、なんとも縁起のいい並びではあります。 猪苗代城は戊辰戦争で建物を消失した後、明治に入って亀ヶ城公園として整備され、現在に至っています。 それでも城郭の遺構はよく残っていて、公園入口でもある二の丸大手虎口には、櫓台の石垣が残っていました。 二の丸大手虎口 石積みは野面積みであることから、蒲生氏郷時代のものとされています。 二の丸の手前には帯曲輪が配され、それぞれの曲輪の周囲は土塁で囲まれていました。 帯曲輪の土塁 二の丸の土塁 磐梯山麓の地形を活かしたのでしょうか、高さも傾斜もお見事です。 二の丸の虎口付近は石垣で囲まれ、櫓台があったと思われます。 二の丸石垣 二の丸虎口 大手口に比べると新しい積み方です。 二の丸と本丸の間にも石垣の虎口の跡が残っていました。 黒門跡 四脚門跡 本丸の石垣は崩落しており、裏込め石が露見していました。 これはこれで貴重な遺構です。 本丸の曲輪 改めて本丸上から見ると、周囲に配された帯曲輪と土塁の様子がよくわかりました。 そして本丸から北側を眺めると、雲に隠れた磐梯山がありました。 猪苗代城の歴史は古く、鎌倉時代にまで遡ります。 相模三浦氏の一族である佐原義連が奥州征伐の功により、源頼朝から会津四郡を与えられ、佐原義連の孫にあたる佐原経連が猪苗代氏を名乗り、1191年に猪苗代城を築城したと伝えられています。 猪苗代城は会津の要衝にあって、黒川城(会津若松城)を攻めるには、まず猪苗代城を突破する必要があったほどです。 伊達政宗が会津若松を制した1584年の「摺上原の戦い」では、猪苗代盛国が伊達氏に内応したことで、伊達政宗は猪苗代を突破して会津に攻め入っています。 そして1868年の戊辰戦争でも、板垣退助・伊地知正治率いる政府軍が、猪苗代城を突破することで、会津若松城下に攻め入っています。 会津若松城と猪苗代城は一心同体だったのでしょうか、一国一城令の後も猪苗代城は廃城となっていません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/06 10:09:21 PM
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