パクス・ジャポニカ Vol.2

2018/10/11(木)21:08

大田原城(下野国)

城跡と史跡(栃木編)(24)

栃木県大田原市には、江戸時代の藩庁であった城郭が2つ存在します。 その1つが黒羽藩の黒羽城で、もう1つが大田原藩の大田原城です。 「類を以て集まる」と言うか、はたまた「同じ穴のムジナ」と言うのか、黒羽城と大田原城はよく似た歴史を持っていると思います。 黒羽城も大田原城も、元々は戦国時代に築かれた城郭でしたが、落城や廃城されることなく戦国時代を生き抜いて、関東では珍しく明治維新まで存続した城郭です。 加えて、黒羽藩の藩主であった大関氏と大田原藩の藩主であった大田原氏は、戦国時代の城主から江戸時代には藩主を務め、一度も転封や改易されることなく明治維新を迎えています。 関東の戦国武将にとって、運命を決める出来ごとが2回ありました。 1つは1590年の豊臣秀吉による小田原攻め、そしてもう1つが1600年の関ヶ原の戦いです。 そのいずれでも形勢を誤ると、明治維新どころか江戸時代を迎えることもなかったと思います。 (実際にそんなケースは数多くあります ) 前置きは長くなりましたが、そんな幸運なスポットである、大田原氏の大田原城を訪ねてみました。 現地に縄張の解説板があったので、例によってまずは大まかに縄張を頭に入れることから始めました。 東に蛇尾川、西に奥州街道、そして北には那須岳と、四神相応の縄張になっていて、防衛よりも縁起を重視した天下泰平の近世城郭のようです。 例によってまずは表玄関である大手口から入って見ることにしました。 縄張図からすると、大手には坂下門があったようです。 坂下門跡 坂下門は桝形虎口になっていたようで、その桝形も残っていました。 石垣ではなく、土塁で築かれた桝形に坂東らしさを感じます。 坂下門のすぐ先に本丸があるのですが、高い土塁が築かれていて直接は入れないようになっていました。 坂下門から見た本丸土塁 全国各地でありがちな縄張ですが、西日本の近世城郭では土塁ではなく石垣になっています。 坂下門から二の丸に行く途中には、「千石倉」と呼ばれる米蔵がありました。 現地の解説板によると、大田原氏は外様大名でありながら譜代並みの扱いを受けていて、幕府の命によって有事に備えるための米をここに備蓄していたそうです。 戦国城郭では虎の子の米蔵は本丸の背後にあったりするものですが、大田原城では大手のすぐ近くにあったりして、この辺りにも天下泰平の時代を感じます。 二の丸虎口 現在では整備されていてよくわかりませんが、櫓台のような跡もありました。 二の丸と本丸の間は空堀で区切られていて、本丸直下からもその跡を見ることができます。 空堀跡 戦国時代には防衛設備だったのでしょうが、近世では通路として使われていたと思います。 あくまでも土塁にこだわるところに坂東らしさを感じますが、西日本では普通に石垣になっているものです。 二の丸跡 二の丸には煙硝蔵などの武器庫が置かれていたそうです。 大手の坂下門から二の丸を迂回して、いよいよ本丸に入って行きました。 本丸虎口の「台門」跡 唯一ここだけは石垣造りだったのに、その石垣は残っていませんでした。 現在では本丸が公園として使われているようで、ステージが置かれていました。 戦闘拠点に音楽ステージが置かれることに、現代の平和のありがたみを感じます。 平和利用されている本丸ですが、西側の土塁が残っていました。 おそらくこれを見て何かを感じる人はいないと思いますが、この入隅と出隅には造形美を感じてしまいました。 本丸の搦手口には公園の通路があって、ここが搦手口だと思います。 「裏門」跡 普通に公園の出入口になっている現在ではあるものの、縄張のセオリー通りに虎口がありました。 その遺構が残っていることに感動するのは私くらいでしょうか。 本丸を離れると、北曲輪の跡に回ってみました。 現在では遊具が置かれたりしていています。 もしここで遊ぶ子供たちがいたら、誇りを持って大田原城の歴史を伝えていってもらいたいと、そんなことを考えたりしました。 北曲輪からは、再び駐車場のある西曲輪や侍屋敷跡に戻ってきました。 駐車場脇にはかつての三日月堀が、今も水をたたえています。 三日月堀 大田原城の建造物は残っていませんが、近くの光真寺には移築された大田原城の城門があります。 当時の門は1825年の火災で焼失し、再建された門ではありものの、当時の偉容を見た気がします。 大田原城は豊臣秀吉による1590年の小田原征伐よりも前、戦国時代の1545年に大田原資清によって築城されました。 さすがは戦国時代を生き抜いた城郭だけあって、天下泰平後も戦闘拠点としての役割を担っています。 1600年の関ヶ原の戦いでは、大関氏の黒羽城と同じく米沢の上杉景勝への備えとして機能していました。 天下泰平の時代、第三代徳川家光が将軍となった1627年には、奥州への鎮護として城の改修が行われ、幕府の常時米が置かれたのもこの城でした。 さらに時代は下って戊辰戦争の1868年では、会津若松に対する重要拠点となり、旧幕府軍の砲撃によって三の丸が炎上する被害を受けています。 天下泰平の近世城郭でありながら、戦国期に誕生した城郭は、やはり戦闘拠点として機能する運命だったのでしょうか。

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