|
テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(奈良・和歌山編)
美術や工芸の宝庫といった感じの法隆寺で、西院伽藍や大宝蔵院だけでも圧倒された後は、東門を通って東院伽藍へとやって来ました。
法隆寺の伽藍配置図 仏像などの美術工芸品から建造物まで、じっくり見ていると法隆寺だけで丸一日以上必要だと思います。 東門(国宝) この日は地元の氏神様のお祭りか何かのようで、国宝の門の前でお祭りの準備が行われていました。 自分もそうでしたが、奈良に住んでいると国宝建造物がどこでも当たり前のようにあるので、あまり有難味がわかってないと思います。 自分は仏像などの美術工芸品はよくわからないこともあり、もっぱら興味は建造物の方に向いていました。 法隆寺の建造物では、西院の見どころが五重塔ならば、東院の見どころは夢殿かと思います。 夢殿(国宝) 夢殿のあるこの地は、元々聖徳太子の一族が住む「斑鳩宮」があった場所です。 7世紀の戦乱で焼失してしまい、それを惜しんだ法隆寺の高僧行信が、聖徳太子の没後約120年の739年頃、夢殿を含む上宮王院を建立しました。 夢殿は聖徳太子を供養するためのお堂で、内部には聖徳太子像などゆかりの遺品が祀られています。 絵殿・舎利殿(国指定重要文化財) 聖徳太子が2歳の時、東に向かって合掌すると、手の中から現れたとされる仏舎利が安置されています。 聖徳太子について言えば、十七条の憲法や冠位十二階、遣隋使の派遣と習ってきました。 また、一度に十人の声を聞き分けたなどの伝説も残っています。 私が住んでいた場所は、JR大和路線(関西線)でいうと法隆寺駅から一駅大阪よりに行った「王寺」という場所で、大阪と奈良の府県境にありました。 大阪の四天王寺から奈良の法隆寺まで、聖徳太子がよく通っていたとされ、太子にまつわる伝承や信仰も数々残っています。 (小学生の時に「わがまちの歴史」みたいなのを教えられるかと思いますが、聖徳太子の「片岡山伝説」は、まさに私の中学校のあった場所だとされています) 現在の日本史では聖徳太子ではなく、厩戸皇子と学ぶようです。 仏教が伝わった6世紀当時は、日本ではまだ新興宗教とされていました。 その仏教を広めたのが厩戸皇子と蘇我馬子で、偶然かも知れませんがイエス・キリストも厩戸で誕生しました。 (飛鳥にはその厩戸の跡も残っています) 実は厩戸皇子こそ蘇我馬子だったと考えるのは、私だけでしょうか。 ユネスコ世界文化遺産「法隆寺地域の仏教建造物」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/11/04 11:21:09 PM
コメント(0) | コメントを書く
[城跡と史跡(奈良・和歌山編)] カテゴリの最新記事
|