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tartaros  ―タルタロス―

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2010.01.13
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カテゴリ:読書
 小松和彦「神隠しと日本人」(角川ソフィア文庫)を読了。 
 

 昨年末、ちょっと松島まで電車に乗って行ってきた。
 休憩をしようと思って駅の椅子に座ったのだが、俺の居た場所の真正面には掲示板が設置してあり、今後に催される予定の行事や指名手配犯の情報などがいくつか貼り付けられていた。
 その中の一つに、「小学二年生の女の子が行方不明になっている」というものがあった。
 今となっては細かい部分は失念してしまったけれど、どうやらキャンプの最中に忽然と姿を消し、未だに見つかってはいないそうだ。

 本書「神隠しと日本人」によれば、日本国内での行方不明事件の発生件数は、警察が認知しているだけでも万単位に上るのだという。我々が日々平穏に、極めて呑気に、あるいはあくせくと生きているうちに、“ここではない、どこか”に消えてしまった人々は、想像以上に多いのだろう。けれども“ここではない、どこか”――すなわち広義の『異界』『他界』と呼ぶ事のできるいずこかの空間――に消えると言っても、『神隠し』という思考方法が未だ当たり前に信じられていた時代と、合理性の推進された現代社会とでは大きな隔たりが確かに存している。
 祖母は子供時分、
「遅くまで外で遊んでいると、人攫いにさらわれてサーカスに売られる」
 などと親に戒められたそうである。
 この戒告がまだ根強く残っていた時代は、すなわち定住せざる者は異界よりの使いであり、彼らの旅する先こそが異界であったのだろう。それは、あるいは畸形児を売り物にした見世物小屋の住人たちであり、固定されたはずの日常から剥離するささやかなりし恐怖を、どこか他人事として、娯楽という次元にまで落としこむことが可能な時代であったわけだ。
 そんな、アウトサイダーじみた排他的思考を持ち出すまでもなく、ある場所に固定化された日常から、突如として人間が消え去ってしまったことを、古人は確かに『神隠し』と称していた。
 神隠された“彼ら”は結局、帰ったり帰らなかったり、あるいは死体となって発見されたりしたようだが、共通しているのは、居なくなってしまった者に対しての『異界からの介在』という要素が混じり込んでいるという点ではないだろうか。天狗であり、山の神であり、山人であり、山姥であり……多様に言い伝えられてはいるけれど、それらの大概はただの人間には如何ともし難い超自然の産物であり、彼らに囚われるというのは、多く、彼らが本来の住居としている“ここではない、どこか”、すなわち異界を構成する住人の一人と見なされるのに他ならない。イザナギが、死したる妻のイザナミを取り戻すべく黄泉の国へと赴くも、既に妻の肉体は腐り果て、死の世界の住人と化していた。女神デメテルの娘・ペルセフォネは、冥界の支配者・ハデスによって死の世界に連れ去られ、そこでザクロを食べたために生者の世界に完全な復帰を果たす事ができなくなる。
 もっと判り易い例を挙げてみる。
 竜宮城より帰還した浦島太郎だったが、故郷から離れているうちに数百年が経過しており、親しかった人たちも、自分の元居た住居でさえも、何もかもが消滅していた。彼をとりまいてているのは、海底に存在する竜宮城なる異界の時間である。一時的にせよ、そこに存在した=神隠された浦島太郎は、既に異界の論理に囚われていたのである。
「神隠しにあうということは、失踪者が異界に去るということであった。そして、そこに留まるということは、失踪者が異界の住人になるということでもあった。失踪が長ければ長いほど、失踪者は異界の『モノ』の属性を帯びることになる。」(p33)のである。
 再び元の日常へと帰って来ることのできた者たちは良い。
 けれど、帰って来なかった者は、もう二度と共同体の人々が会うこと叶わない。
 すなわち、神隠されたまま帰還せぬ者たちは、そのまま異界の住人となったというように解釈され得るのであり、つまり、それは――ひとつの『死』を意味する事でさえ、ある。古い時代の葬送とは、死者のための儀礼であるというよりも、むしろ生者のための儀礼とも言うべき側面が存在している。日常に侵入した死なる不測の事態である非日常に区切りをつけ、また翌日から当たり前の生活を手にするために営まれるべき祭儀だったのである。かつて信じられていた神隠しという思考の方法は、いわば死者なき葬送であるのかもしれない。唐突に喪われてしまったであろう行方不明者の存在は、確かに共同体において発生した恐るべき非日常だ。現実的に考えれば、家出・事故・恋人との駆け落ち……など、いくらでも原因は考えられる。しかし、共同体に侵入した異界を振り払うためには、彼らの失踪や蒸発を超自然的現象の仕業と考えてしまった方が、遥かにやり易い。
 言うなれば『神隠し』という解釈は、共同体内部における行方不明者へと、緩やかな死を与えるための葬送だったのである。
「『神隠しにあったのだ』という言葉は、失踪事件を向う側の世界=異界へと放り捨てることである。それは、民族社会の人びとにとって、残された家人にとって、あるいは失踪者にとって幸せなことだったのだろうか、それとも不幸なことだったのだろうか。」(p115)。
 現代よりも村落共同体としての結びつきが顕著だった時代には、互いに顔見知りである村内からの逸脱は、きっと忌まれていたのではないだろうか。どこの誰が居なくなっても騒擾となる狭く閉じた世界だからこそ、神隠しというシステムは機能し得る。それは、まだ葬送が地域社会の営みだった時代の産物であるのに違いない。
「神隠し信仰は消え去ってしまった。このために、現代社会における失踪事件は、ほとんどすべて人間世界の内部に原因と結果が求められることになった。『神隠し』のヴェールを剥ぎ取った失踪事件は、むき出しの愛と欲に彩られた人間世界の出来事のクライマックスの一つとして描き出されるものといっていいだろう。」(p203)
 石と鉄で造られた大都市が誕生し、全国から地縁も血縁も無い人々が続々と集まって、モザイク的な様相を帯びた社会こそが、現代であろう。もはやその地においては、死の知らせを受け取るのは共同体よりも家族、社会よりも個人と考えた方がちょうどいいのではないだろうか。そして、『異界』もまた、我々人間が知り得る範囲でのみ存続している。
 今でも、人は居なくなる。
 何の前触れも無しに、ある日突然、「たしかに、失踪者は日常生活の“向こう側”に消えてしまったといっていいだろう。しかしながら、現代人にとっての“向う側”は、家族や知人にとっての向こう側、つまり彼らの知らない、見えない世界ではあっても、そこもやはり人間の世界の内部なのである。そこは神々の領域としての“向う側”ではないのだ。」(p204)。
 
 神隠しという見立てが未だ許されていた時代、それは社会的な死であり、緩やかな死であり、そして何より甘やかな死の形であった。見えぬが故に、異界での安息を祈る一抹の希望であった。
 異界が顕界と地続きになり明確に可視化されてしまった現代の方が、実は、行方不明者の悲劇を受け容れるうえでは、鵺の如き不可解な不気味さに覆われているのかもしれない。





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Last updated  2010.01.13 23:24:00
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