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わたしは限りなく彼女を求め、際限なく彼女を失い続ける ▲蓼科高原のとある別荘地の奥にこのような渓流がある。まさに奔流と呼ぶのがふさわしい清冽な水が流れ落ちていく。山岳部ではもう冬ですが、ここではまだ秋でした。by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 (承前) こころのかたち(shape of my heart) わたしは限りなく彼女を求め、際限なく彼女を失い続ける それがいまのわたしの恋だ。 感情がある、ということと、心がある、ということとは似て非なるものだと言うことをはっきりと認識した。 つまり、感情はあっても心のない人間だってこの世には存在しうるということを確信したと言うことだ。 それは倫理でもなく論理でもなく、まさしく「こころ」を持っているか否か、というクリティカルな問題なのだ。 心が無くても人に親切にすることはできるし、助けることだってできる、そのことによってその人に愛されることだってできるかも知れない。 しかし、心を持たない人間はその愛にこたえることはできない。 本当の意味で愛することができない。 相手をどんなに好んだとしても、心がなければそれは愛とはなり得ない。 心は不確かで儚いものだ。 いつの間にか失っていたとしてもすぐには気づかないほどだ。 人に愛されることになれてしまっている人は特に気をつけたほうがいい。 心を盗むとか無くすとかというのは比喩に過ぎないけれど、たしかに、こころが無くなってしまうことや最初から無いと言うことはありうるのだから。 もし、ひとと思いや感動を共有できないのなら、それはちょっと危ない兆候だ。 価値観や嗜好性の違いならば何の問題もないけれど、 もしそうでないのならば、あなたの胸の内に「こころ」というものがまだあるかどうかしっかりと確かめたほうがいい。 こころとは、愛をはぐくむゆりかごなのだ。 願わくば、僕も、そして僕の愛する人もそれを失ってしまうことのないように。 あるいは最初から持っていない哀しい人でないことを祈る。 愛にこたえてもらえない苦しみより、愛にこたえられない苦しみや哀しみの方がはるかに大きいからだ。 こころとは、あなたの精神のコア(核)とでもよぶべきものなのだ。 あなたの「こころのかたち(shape of my heart)」をいま一度確かめてみてはどうだろうか。 僕はすでに「こころ」を無くしてしまったのかも知れないのだけれど。 だからわたしは 限りなく彼女を求め、際限なく彼女を失い続ける それが、わたしの選択した「世界の終わり」のかたちだからだ。 ここには苦痛は存在しないが、埋めようのない喪失感に充ち満ちている。 こころを失うというのは、そのようなことなのだ。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700m ペンション・サンセットのホームページ: http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.12.11 00:04:04
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