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蓼科高原日記

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2016.04.06
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テーマ:写真日記(2108)
カテゴリ:カテゴリ未分類
DSC00811FP1d


2016/04/06 水曜日


正直に言おう

「わたしは自分が傷つきたくないからひとを傷つけたくない。」

そうなのだ、わたし個人に関する限り、これは間違いない。

その延長線上に次のような行動様式が現れる:

わたしは自分が傷つきたくないからひとを攻撃しない。

攻撃しないですむように出来るだけひとと関わらない。

もちろんわかっている

社会はひととひととの関わりで成立しており

ひとそれぞれであるからそこには異なった立場や見解や利益やらがある

当然のこととして日常でも対立が生じて闘争となり摩擦や軋轢が生じる

それを解決するのが「知恵」というものだが

わたしにはその「知恵」が欠けているようなのだ

だからやられっぱなしになる

これは経験則だ


叡智あるひとがどれほど道を説こうとも

明瞭な形を取らないまでも

なんらかの「力(power)」が最終的には問題を解決する

それを「正義」と呼ぶここともあるし

「権力」と呼ぶこともあるし

「権威」と呼ぶこともあるし

「民衆の力」と呼ばれることもあるし

もっと明確に「暴力」といえるものもある

これがわたしの第2の経験則だ



ひとを抑圧するもの

言論や行動や行為を抑圧するもの

そのように考えることすら抑圧するもの

NOと言うことを抑圧するもの

それらはすべて暴力である

どのような形を取ったとしても

たとえそれが言動であったとしても

ひとの何かを否定するもの抑圧するもの

それらはすべて

間違いなく「暴力」である

それがどうとでもとれる暗黙のサインであったとしても

やはり「暴力」である

人を無視してかかること

マウンティングすること

それは明確な暴力の行使である

それが自らに向けられた自分自身の力であったとしても

やはり「暴力」である

そして

暴力を行使する側の人間は

得てして

自分の行使した暴力が

どれほどひとを傷つけ抑圧するかと言うことに

驚くほど無頓着であり

その効果に悦に入っているものだ

まさにゲスの極みというものか



「人はひとりでは生きられない。」

それは数少ない真理のひとつかもしれない

うん

​そうであるならば

なによりも「暴力」の本質を考えなければならない

誰もが暴力を携えて生きていること

誰もがその暴力を知らず知らずに

行使しているかも知れないこと

行使されているかも知れないこと

そのことにもっと敏感にならなければならない

偉そうなこと言っちゃうけど

ふとそんなふうに思っている自分を発見した今日という日



カモの親子(諏訪湖畔にて)
DSC00811FP1


from 蓼科高原ペンション・サンセット





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Last updated  2016.04.06 19:43:23
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