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のんびり・ゆっくりダイエット

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2021/02/25
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壇具川沿いに散策・・








少し残っている紅葉を楽しみながら
しばらく登っていくと







笑山寺・・
階段の上に山門がみえます・・







階段を登り山門をくぐると正面に本堂が・・
本尊は如意観音・・
斜めに伸びる参道が珍しいです・・
右に動物供養塔・・左に石塔が・・

笑山寺は曹洞宗の寺として元和年間(1615~23)に
長府初代藩主毛利秀元が廃寺潮音寺をこの地に移したのが
開基と伝えられています・・
承応元年(1652)秀元の父穂田元清の霊位を移し
その法名「洞霊寺笑山常快」にちなんで笑山寺と称しました・・
境内には
二代光広と七代師就の五輪塔があるほか
1975年に下関市指定文化財となった
「十三重石塔」が建っています







十三重石塔(下関市指定有形文化財)

高さ3.28mの花崗岩で作られていて
上部の相輪が消失し他の宝珠が乗せられています・・
一部に若干の欠損が見られますが
軒部分の反りは優美で古い層塔の少ない
山口県内では貴重な石塔です・・
造作は鎌倉時代後期のころと見られています・・
下部の重軸部に四方仏の梵字が彫られています・・






瀧川辨三君彰功碑

日本のマッチ王と称された瀧川辨三の顕彰碑・・
長府藩士瀧川清の二男として生まれ
乃木希典や桂弥一らと共に集童場で学んでいます・・
長府報国隊に入隊し兄と共に北越戦争に参戦・・
兄の瀧川六郎は長岡で戦死しました・・

維新後は神戸でマッチ製造会社を営み
販路を拡大して「日本のマッチ王」の異名を得ます・・
実業家として関西の多数の企業の取締役を歴任し
滝川中学校・高等学校も設立・・
神戸市会議員・貴族院多額納税者議員も務めました・・

大正期に荒廃していた笑山寺を復興し・・
この縁から顕彰碑が建てられています・・
題字は渋沢栄一・撰文は桂弥一・・

      




長府藩二代光広・七代師就(もろたか)の五輪塔

墓地の一角に西日本でも有数の大きさと言われる
五輪塔が並んでいます・・

画像右が
二代藩主毛利光広の五輪塔・・
初代秀元は享年72歳と長生きしましたが・・
その子光広は家督相続の3年後に38歳で病没しています・・
彼によってこの寺は笑山寺と改称されましたが
ここを墓所としたのはその縁からだそうです・・

画像左が
七代藩主師就の五輪塔・・

享保10(1725)年7月28日のこと
松本藩(長野県)6代藩主の「水野忠恒(ただつね)」は
江戸城にて8代将軍徳川吉宗に拝謁する予定でした
自分の婚儀の報告のためだとかで
なんともめでたい話だったようです・・

将軍に報告も済ませ無事に拝謁を終えた水野忠恒・・
さあ退出というところで
松の廊下に差し掛かったときのこと

突然・理由もなく・・
次に拝謁する長府藩(山口県)藩主の
五男・毛利師就(もうりもろなり)とすれ違いざま
いきなり相手を斬り付けたのです・・

慌てる重臣たち・・
斬り付けられた毛利師就はというと
わけも分からないまま彼はなんとか刀を抜かずに
刀の鞘(さや)で応戦・・
忠恒はその場で幕臣らに取り押さえられたそうです・・

当時
江戸城での刃傷事件はご法度・・
そんな大それた事件を起こすとは・・
水野忠恒にはよほどの恨みがあったのだろうと・・
ところが彼らは全く面識がなかったそうです・・

自分の領地が取り上げられ師就に与えられると思いこみ
切りつけたと供述しましたが実際にはそのような事実は無く
忠恒はその日のうちに川越藩主に預けられることに・・

その後
松本藩の水野家に下った処分は「改易(かいえき)」・・
武士の身分が剥奪され家禄・屋敷・領地が没収される
非常に重い処分だったそうです・・

川越藩の秋元喬房のもとに預けられた後
叔父の水野忠穀の浜町の屋敷に移されて蟄居・・
享年39歳で没・・

師就は鞘に入ったままの刀で応戦したので
お咎めなしだったとか・・

この事件が起こった松の廊下では
24年前の元禄14年(1701年)に忠臣蔵で有名な
浅野内匠頭の刃傷事件も起こっています・・
長府藩は赤穂事件の際
四十七士のうちの十士を預かっていました・・
同じく十七士を預かった熊本藩が彼らを厚遇したのに比べ
普通の罪人のように扱って評判を落としたそうですが
後に待遇を改善したそうです・・

この笑山寺にある墓は遺骨の入っていない詣り墓で
埋葬されたのは江戸の泉岳寺・・
奇しくも浅野内匠頭及び四十七士と同じ場所でした・・

調べているとこんな話が・・

栗崎 道有(くりさき どうう)

江戸時代中期の蘭学医・・
外科医・栗崎正家の子として誕生・・
寛文4年(1664年)に長崎で生まれたとされていますが
生年については万治3年(1660年)寛文元年(1661年)と
する説もあるそうです・・

祖父・栗崎道喜から続く南蛮流の外科医術を取得し
その後オランダ流の外科を習得・・
元禄4年(1691年)江戸へ出て江戸幕府の官医と・・

元禄14年(1701年)赤穂藩主・浅野長矩が
江戸城内で吉良義央を斬りつけた際に義央の治療を行い
また元禄15年(1702年)に義央が赤穂浪士に斬られた際には
首と胴体の縫合を行ったと・・

享保10年(1725年)
毛利師就が水野忠恒に斬りつけられた事件の際にも
師就の治療に当たったそうです・・

続く・・


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Last updated  2021/02/25 02:36:34 PM
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