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聖セラフィムの証拠「聖なるかな、聖なるかな、聖なるであることは、主の元に来ることができる」

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2020.09.08
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カテゴリ:スピリチュアル
ブログを読み、愛があるのは劣位の神の右側であり、物質世界と比べて次元が高く、愛に満ちてる世界だという事を再確認しました。物質世界との違いをきちんと理解します。

Zadkuel


「愛があるのは劣位の神の右側」と解釈してしまうと、左側には愛がないように聞こえますが、左側が存在している以上、そこに愛はあります。
物質世界にも物質が存在する以上、愛はあります。

Seraphim


私は、自分の根っこにある甘えや依存、自己中心や傲慢さと向き合う事に拘り、愛のない自分ばかりをいつまでも見ていました。周囲を愛し、光を放つことを恐れる気持ちがありました。

Seraphimさんは「今からすぐに周囲を愛し、光を放ってください。」「それぞれにできることを黙々とこなし、地道に周囲に光を放ち続けていく。」「常に光を愛(アイオーン)を手放さず、積極的に光(愛)を放ち続ける。」と言われています。
光(愛)を放つと言う言葉を何度も目にしていました。気になりましたが、自ら積極的に行動をしていませんでした。よく分かっていない私だと思いますが、怖がらず、光を放つことができるようになるために、1つ1つ教えていただいたことをしていきます。

Zadkuel


自分にできることが、この世でできる愛行です。

「これでいいのだろうか?」と目の前に提示された愛行に疑問を抱くのは、劣位の神からの依頼に疑いの目を向け、提示された愛行に自ら優劣をつけているのと同じです。

光(愛)を放てる(実践できる)のであればその内容に優劣はありません。
大きく派手な行いが優れ、小さく地味な行いは取るに足りないという認識は、劣位の神の左側(肉)の発想と言えるでしょう。

そういう発想をしているから、奇跡を特別扱いする宗教団体が、劣位の神の存在に気づけないまま人を仰ぎ見てしまうのです。

私たちは地味であろうとなかろうと、与えられた愛行を忠実にこなして行きましょう。
そういう人たちで劣位の神の世界が満ち溢れることを願って。

Seraphim





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Last updated  2020.09.08 09:27:45
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