飛鳥再訪(10)甘橿丘から豊浦寺へ
1月21日(土)午後4:15橘寺を後に今度は甘橿丘(あまかしのおか)へと向う。甘橿丘ではちょっとゆっくりしたい。が、5時には日が落ちてしまうことを考えるとあまり余裕はない。川原寺跡を左手に見て真っ直ぐ自転車を飛ばす。その先、飛鳥川にぶつかったところで今度は左手に折れて飛鳥川に沿って進む。ああ、飛鳥川の何と懐かしく、何と気持ちのよいことか。もう随分荒れてはいるけれど、やはりその瀬音は心に清々しさをもたらす。できれば美しい飛鳥川の様子を写真に撮りたい気もしたが、今は時間がない。全速力で甘橿丘へ向けて自転車を飛ばす。丘が近づいて来て、飛鳥川と別れる辺りで「豊浦(とゆら)」の標識が見える。そうか、豊浦はこの辺りであったか、と思いを新たにする。豊浦は蘇我馬子が地盤を築いた所、聖徳太子や推古天皇とも縁の深い土地だ。できればこの辺りの空気もゆっくりと味わってみたいものだが――。甘橿丘の麓に自転車を停めると、そのまま丘を登って行く。途中、志貴皇子(しきのみこ)の采女(うねめ)の 袖吹きかへす 明日香風(あすかかぜ)都を遠み いたづらに吹く (『万葉集』巻第一・51)の歌を刻んだ石碑がゴロッところがっている。これも19年前のままだ。懐かしい。更に上へ上へと登って行く。これが次第にきつくなってきた。今朝からずっと歩きっぱなしのせいか、荷物が重いからか、それと自分自身の体重も重くなったせいか、途中で息切れしてしまう。志貴皇子の「釆女の袖吹きかへす」の歌碑頂上に出た。三山を一望に出来る風景に心躍る。ああ、帰って来た、と懐かしい気持ちにさせられる。倭(やまと)は 国のまほろばたたなづく 青垣 山隠れる(やまごも)れる 倭しうるわし (『古事記』31)というヤマトタケルの思国歌(くにしのいのうた)が自然と口をついで出る。本当にいつまで見ても見飽きない風景だ。畝傍の方に目をやると二こぶラクダのような山頂が目に入り、ああ、二上山(ふたがみやま)だ、と自然とわかる。あそこに謀反の罪を着せられた大津皇子(おおつのみこ)は葬られたのであり、その姉大伯皇女(おおくのひめみこ)は、これからの人生、あの山を愛する弟と思って生きようと歌ったあの山である。それから香久山の東に目を転ずると、何とそこには今朝その麓をずっと歩いていた三輪山が大きく見えている。そうか、三輪山はこの大和のどこにいても見える山だったのだ。であればこそ、大和の人々の精神的な柱となったのであり、天智天皇が都を近江に遷す時、三輪山が見えなくなることに皆が淋しく思ったのであり、それを額田王が歌にしたのだった。本当にここに立っているだけで歴史の絵巻物を一瞬にして見ているようである。思いはつきないが、ふと気がつくともう4:40になっている。もう日も落ちようとしているし、5:00までには橿原神宮前の駅に戻って自転車を返さなければならない。慌てて丘を下る。丘の麓を巡る道に沿ってそのまま駅の方へと自転車を飛ばす。と、その途中にあった。「豊浦寺址」の石碑が前に立つ向原寺である。豊浦寺は、もともとは推古天皇の最初の宮があった所であり、天皇が小墾田(おわりだ)に宮を遷してから蘇我馬子にお譲りになり、以後馬子の邸宅となっていた所である。今建っているお寺は当時のものとは全く違うものだろうが、この地に馬子や推古天皇を偲んでみるのであった。ところでこのお寺が「太子山」となっているのはやはり聖徳太子の縁なのであろう。かつて蘇我馬子が住んでいた豊浦寺址に建つ太子山向原寺時計を見ると4:50。駅へと急ぐ。豊浦寺前の道を真っ直ぐ行き大きな通りに出ると、あとはこれをもう真っ直ぐ飛ばして行けばいい。レンタサイクルに自転車を返したのはちょうど午後5:00だった。今日のところはこれで終わり。さすがにお腹が空いた。駅前の店でうどんでも食べて、それから19年前と同じ懐かしい旅館にチェックインすることにしよう。