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(読者の声7)
貴誌通巻第2626号(読者の声3)でdoraQ氏が書かれた「この状況は 欧州の大航海時代まで続きますが、その頃の世界的な中心を国でいうと、 西に(アラブ人を支配したトルコ人の)オスマン帝国と東の(支那人を 支配した満州人の)清朝でしょう」は慧眼の指摘です。 西暦1600年に、ヨーロッパで社会情勢に詳しい人に、100年後の ヨーロッパの覇者はどの国かと聞けば、その答えはオスマントルコ帝国 であるという答えが返ってきたであろうというのは言い古され言葉です。 しかしこの表向きはへりくだって客観さを装うヨーロッパ知識人の言葉 の裏には、トルコに対する鬱屈したコンプレックスが隠れています。 韓国の学者が内輪で議論をするときにはいかに韓国の竹島領有権の主張 が不当なものであるかを認識していても表向きでは決して認めないのと 同様にトルコに関していくつか表立って言わない重要なことがあります。 そのうちのひとつは、アヴァール人がヨーロッパが未開地から脱却する のに果した決定的に重要な役割です。 もうひとつは17世紀にトルコがオリエントの覇者に加えオクシデント (ヨーロッパ)の覇者となることができなかった最大の要因です。 それは日本が鎖国をしたことです。 16世紀末日本では、世界最高の性能を持った武器が世界総生産の大半 を占める量で製造され、しかもそれが実戦で実証されていました。 しかし関が原の合戦以降、日本での市場が小さくなり、大量に輸出され るようになりました。その輸出先がオスマントルコ帝国でした。 17世紀初頭におけるトルコの破竹の快進撃の一大要因は、日本からの 輸入した大量の高性能兵器でした。その輸入が日本の鎖国で途絶えた後、 トルコの快進撃も終りました。このことは、欧米人が面子にかけて絶対 に認めたくないことです。 では、何故他のヨーロッパ諸国も日本から競って兵器を輸入しなかった のかという疑問が残ります。 輸入するための外貨の不足も一因でしょうが、もうひとつ決定的な要因 がありました。当時の西ヨーロッパ各国で使われていた戦法には向かな かったのです。 当時の西ヨーロッパでは、軍事には速射ができる胸当て銃、狩猟には命 中精度の高い頬当て銃が使われていました。日本ではいずれにも頬当て 銃が使われていました。西ヨーロッパ各国では、戦法を変え、兵士を訓 練しなおし、ロジスティクスを変えない限り日本から銃を輸入しても使 えませんでした。 さらに二つ。欧米でタブーになっているトルコの話があります。 ひとつは歴史上一番有名なトルコ人、聖ニコラスです。またの名をサン タクロースといいます。しかし、欧米ではトナカイに乗った北欧人とさ れています。もうひとつは種痘です。 イギリス人のジェンナーが乳搾りを行う農婦が天然痘に罹らないことか ら発見したと言われていますが、実は、ジェンナーの知人がトルコ旅行 をして、当時トルコでは、種痘が行われていたことを話すのを聴いて、 実験で確認したのでした。 既に効果が確認されトルコで長年にわたって行われていたことの効果を 再確認したのでした。 ところでトルコが最強国とみなされていた17世紀初頭に当時の東アジ アの情勢に詳しい識者が、どの国を東アジア最強国、また100年後の 覇者とみなしたのでしょうか。全く何の疑いもなくそれは日本でした。 世界最大の軍事力、最高度の兵器の大量生産能力、世界最大の金保有量、 世界最大の製鉄能力をもっていました。鎖国前には、フィリッピンから タイにわたる商圏を日本人商人が支配していました。シナでは明の命運 はまさに風前のともし火、モンゴル族・満州族連合勢力はまだ覇権を握 っていませんでした。そして、混乱の中で民力は疲弊していました。 三国時代末期のシナはこの時代と同様の状態にありました。シナの人口 は漢末に4000万人を越えていましたが、この当時、シナの中心部 (所謂「中原」)の人口は二百数十万人くらい、さらに周辺部分を唐の 最大領土くらいに広くとっても八百万人足らずで、日本と大差がありま せんでした。 かたや戦乱に明け暮れ疲弊した社会、人民の集まり、日本はといえば平 和そのものでした。この状態を俯瞰すれば、どの国が当時の東アジアの 覇者だったかは明確です。親魏倭王の金印を求めるような愚か者は当時 の日本にいたはずがありません。 (引用)[余談ですが、国号を日本に変えるまでの我国の対外的な国名 「倭」ですが、その意の「背の曲がった小人」や、「従順な者」という 意味を考えながら、歴代日本首相と、江沢民や胡錦濤の関係を考えれば 何かが解かる]と書かれましたが、まさに慧眼です。 井の中の蛙大海を知らず、です。 「倭」という漢字の元来の意味は、「人」が身を「委」ねる、つまり、 「すなお」(素直)でした。 日本においては漢字が導入されてから、意味も音も導入時点のものが後 に導入されたものが加わるだけで、比較的に保存されてきました。シナ においては、意味も音も異民族が流れ込むごとに大きく変わりました。 「倭」とい漢字の意味が、侮蔑的なものに変わった原因は、おそらく昔 シナに「ワ」と呼ばれた部族国家があって、「倭」という漢字を当てて いたが、その部族国家が他の部族国家に制圧され隷属したことにより、 「倭」という漢字自体の意味が変化したのであることにほぼ間違いない と私は考えています。 このことの判らない人たちが日本人を「倭」と読んで馬鹿にしたと思い 込んでいるのです。そうでないと何故『日本書紀』で天皇の名前の中に 「倭」という漢字が使われているか理解できません。 ところで、[国名が日本ですから、「日(太陽)の本(源)」、当時の 世界的中心の支那から見て「太陽の昇る東にある国」という意味です] とありますが、何故「本」が「東にある」という意味になるのか私には 全くわかりません。これを理解するには、よほど飛躍的な直感が必要な のでしょう。 しかし日本とは不思議な国号です。どうやってつけたのか判りません。 一応7世紀末にできた飛鳥浄御原律令の中で使われたのが最初と言われ ていますが、使われだした経緯、由来がわかっていません。 今後の研究成果がまたれます。 「欧州では中世まで世界の中心はキリストが架刑された聖地エルサレム と考えられていました」と書かれましたが、ヨーロッパ中世では僧侶以 外は聖書を読んだものは殆どいず、教会で賛美歌を聴くのがキリスト教 信仰の中心でした。 すくなくとも十字軍開始前のヨーロッパ人たちは、「Heiliger Pater」 (ローマ教皇)がお住まいになられるところが世界の中心であると考え ていたのでしょう。 そして十字軍開始以降になって、エルサレムを意識するようになっても、 それは霊性に関してのことであり、世俗的にはローマさらに自分が住ん でいるところが世界の中心であったと考えます。 このパトス上の世界とエトス上の世界の明確な分離の開始が、ヨーロッ パが次の文明段階へ進むきっかけとなったものです。 また、オスマントルコ帝国の国民に、世界の中心はどこかと尋ねれば、 おそらくメッカではなくスルタンのいらっしゃられる宮殿だと答えたの ではないのでしょうか。(ST生、神奈川) (宮崎正弘のコメント)イスタンブールをほっつき歩くと、あれ、この 町は聖地だという印象を二日目あたりから抱きますね。コンスタンチノ ーブルの時代と騎馬民族やアレキサンダーが交錯した隘路。いくつのも 文明が通過し、その混沌が残った。南へいけばトロイの木馬、エーゲ海 へでればギリシア文明との遭遇、 イズミールからエフィソスへ行けば ローマ帝国の残骸、そしてそれから東へいけば東洋世界。 日本からのトルコへ団体観光、ツアーが顕著に多い理由は、このエキゾ ティックな世界に浸りたいから? 以上は、「宮崎正弘の国際ニュース早読み」読者の声から転載。 http://www.melma.com/backnumber_45206_4508977/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.10.11 12:09:24
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