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テーマ:統一運動(71)
カテゴリ:第9章
第9章 ソ連崩壊後の再会/ゴルバチョフ氏の韓国訪問
ソ連解放から四年が過ぎた。一九九四年年三月二十六日、ミハイル・ゴルバチョフ旧ソ連大統領が初めてソウルを訪問した。彼はまず文鮮明先生の漢南洞公館に出向いて、そこで再会の熱い握手を交換した。 文鮮明先生は約束通り、ゴルバチョフ氏をソウルに招待したのである。そして、ゴルバチョフ夫妻を主賓に迎え、「世界平和連合第二回国際会議」を開催されたのである。ゴルバチョフ元大統領はこの会議で基調演説をする予定になっていた。 その日、漢南洞公館は慌ただしかった。文先生御夫妻はソ連で受けた親切な礼遇にお返しをしようと、精誠を尽くして韓国式の午餐を準備された。その午餐には教会幹部、重鎮たちも席を共にした。 ゴルバチョフ氏は珍しそうに二本の箸を使って、韓国式の食事をするのに汗を流していた。どうやってもうまくゆかず、令夫人がナイフとフォークを持ってくると、おなじみの「スパッシーバ! スパッシーバ!」を連発して感謝した。文先生御夫妻がクレムリン宮殿を訪問したときに何度も聞いた、あの懐かしい声である。彼は焼き肉と野菜炒めをおいしそうに食べ、食後にスジョンカ(韓国の飲物)まで楽しみながら、韓国の伝統料理は非常に素晴らしいと称賛した。 午餐が終わると、ゴルバチョフ氏は文先生に単独で申し上げたいことがあると言った。 先生は話を聞くために、すぐに彼を他の部屋に案内した。そこに同席したのは、もちろん韓鶴子令夫人と、元大統領の秘書兼通訳のリコタル氏と、文先生の通訳を受け持つ私だけであった。 別室に入ると、ゴルバチョフ氏はひどく深刻な表情になった。しばらく沈黙を守ってから、彼は口を開いた。 「私は先生の祈祷がなければ既に死んでいた人間です。そればかりでなく、先生が私を救うために何をされたかを、私はよく知っております。先生は私の生命の恩人です」 ゴルバチョフ氏の目には光るものがあった。 ここで読者は怪訝に思うかもしれない。ゴルバチョフ氏が言う文師の助けとは、何を指すのであろうか? ここにまた一つ重大な秘話がある。 文先生がクレムリン宮殿で歴史的な単独会談を終えた後、アメリカに戻ってソ連のために最初に企画した事業が、ソ連のエリート大学生を招いて、アメリカで一週間ずつ神主義と頭翼思想の研修会<26>を行うことであった。モスクワ大学を筆頭にソ連全土から英語が話せる三千名の青年学生を招待したのである。それが一九九〇年七月から始まって、一年以内に二十回の研修会が終わっていた。ソ連の清純な若者たちの魂に神を刻み込んだのである。この研修会に参加したソ連の若きエリートたちは生涯で初めて神を知り、真の兄弟愛を味わい、涙を流して統一運動に参加し、ソ連を共産主義から救う決意を固めて帰国していった。 一九九一年八月、ソ連反改革派クーデターの報を聞かれた文先生は、すぐさまソ連内の三千名の青年学生に命じて、クーデターに対して反対デモを行うよう命令された。この三千名がゴルバチョフ大統領の生命を救った民間抵抗闘争の主役であった。 彼らは神の名をもってソ連軍の戦車を乗っ取った。ソ連の戦車はこのデモ学生たちで満載となった。ソ連軍はこのデモの群衆を皆殺しにするわけにはいかなかった。ひるむ反乱軍は二つに分裂し、そのすきに数千、数万の民衆が加勢した。これがクーデターを失敗させた原因である。事件収拾の裏には文先生の隠れた貢献があったのである。 ゴルバチョフ氏が韓国に来た本当の目的は、自分の生命の救い主に直接、感謝の意を表明することにあった。 ゴルバチョフ氏は言葉を続けた。 「私は先生とモスクワでお会いした後、いくらも経たないうちにクーデターが起こったとき、間違いなく死ぬ運命でした。私がきょう生きているのは、神が保護したからです。神が私を保護された理由は、先生が私のために祈祷してくださったからです」 「一九九〇年にクレムリン宮殿に来て語られた先生の言葉を、私は胸の奥深く大切にしていました。振り返ってみれば、そのとき先生が語られた言葉通りに、すべてが成し遂げられました。ですから、先生は私を少し称賛してくださってもいいでしょう。先生の言葉を百パーセント守ったのですから」 と大きく笑みをほころばせた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年04月10日 22時40分59秒
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