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カテゴリ:ファッションビジネス
1981年4月、私はバーニーズニューヨークのジーン・プレスマン副社長(創業者の孫、のちに3代目社長に就任)とメンズバイヤーのマイケル、レディースバイヤーのキャロルを連れて東京にきました。秋に設置予定のジャパンブランドを集めたショップ「TOKYO」の買い付けが目的でした。
当時バーニーズニューヨークはマンハッタン7番街西17丁目に1店舗のみ、売上は日本円換算150億円弱でしたが、ジョルジオアルマーニと独占販売契約を結んで米国市場で広めた大型ファッションストアとして有名でした。 ところが、日本のショールームを回って来日の趣旨を説明しても、ほとんどのブランド関係者はその存在すら知りません。バーニーズが米国市場でどういうポジションにいるのか、また決済方法の「レター・オブ・クレジット」はいかに出荷側にリスクがないかを説明してからでないと発注できませんでした。次の来日のときは、滞在中のホテルの部屋を借りてリビング雑貨の責任者でもあるジーンの母親がホステスとなってバーニーズを知ってもらうための小宴を開いたくらいです。 東京でバイイングをするうち、ジーンは買い付けのほかに自社プライベートレーベルとして立ち上げたカジュアルブランド「BASCO」(バーニーズ・オールアメリカン・スポーツウエア・カンパニー頭文字をブランド名に)の契約先発掘と、バーニーズそのものの日本進出を手伝ってくれるパートナー探しを頼むと言いました。 でも、前者は商社に依頼すべき、後者は難しいと思うよ、と返事しました。BASCOは伊藤忠ファッションシステムの仲介でラングラージャパンと提携できましたが、バーニーズの東京出店は諦めたと思っていました。ところが私が帰国して4年後、バーニーズニューヨークは伊勢丹との業務提携を発表、伊勢丹が巨額の出資(確か日本円換算640億円)で米国内の多店舗化をサポートし、これとは別に日本にもお店を開くと知りました。 そして1990年新宿にバーニーズがオープン、ニューヨークから派遣されたのはあのメンズバイヤーのマイケルでした。オープン日にマイケルは私に「ニューヨークよりもいい店ができたと思わないか」と胸を張っていましたが、新宿店はニューヨークよりもファッション店らしい雰囲気が漂っていました。 が、のちにバーニーズニューヨークは米国で多店舗化を急いで経営破綻、出資者の伊勢丹にとんでもない迷惑をかけ、プレスマン一族は会社を追われました。その後バーニーズは投資ファンドなどの手に渡り、結局二度目の破産申請で消滅しました。現在日本法人(こちらも伊勢丹の手から離れ、現在はセブン&アイ傘下)は営業を続けています。 ニューヨークから派遣されたマイケルと闘いながらなんとかバーニーズ日本1号店を立ち上げたのは、伊勢丹シンガポール店での経験がある田代俊明さんでした。田代さんは本国の社長になったジーンや東京駐在のマイケルから私のことを聞いていたからでしょう、よく声をかけてくれました。 CFD時代東京コレクションが閉幕すると、田代さんは慰労会を開いてくれました。その席には片腕だった有賀昌男さん(現在エルメスジャポン社長)、野本洋子さん(のちに伊勢丹研究所ディレクター)、高橋みどりさん(のちにエストネーション立ち上げ)らが同席。バイヤーの野本さんのアシスタントが若き藤巻幸夫さん(のちに福助社長、参議院議員)です。また、日本人で初めて米国高級店バーグドルフグッドマンのヴァイスプレジデントになり、そのあとユニクロ役員になった勝田幸宏さんもキーメンバーでした。 田代さんはバーニーズ側が言う「オープン・トゥ・バイ」が理解できず、ジーンとマイケルとよく口論したそうですが、日本の百貨店マンには商習慣が違うので一見無計画な発注に映るオープン・トゥ・バイが呑み込めません。パリやミラノの展示会場ではよく喧嘩したと聞きました。が、この経験はバーニーズジャパンに関わった人々の血となり肉となったのではないでしょうか。 横浜店の建設を計画しているとき、恵比寿にあった某イタリアンレストランと出店交渉していた田代さんはお店に通い続けましたが、レストラン側の資金的事情もあって夢はかなわずでした。田代さんはいつものメンバーで恒例の東コレ慰労会をここで開いてくれましたが、このとき店主がグラッパのボトル数本をテーブルに並べ「どうぞ好きなだけ」とサービスしてくれました。田代さんと私は調子に乗ってサービスのグラッパを大量に飲み、お店を出るときは完全に足をとられ立っていられなかった思い出もあります。 東京コレクション直後の真面目な話もひとつ。モデル4人の非常に小さなフロアショーでデビューしたNデザイナーのことを私が絶賛したら、野本バイヤーがショールームに飛んでいってショーのサンプルまで買い付けました。その年毎日ファッション大賞新人賞に決まったNデザイナーはサンプルが足りず授賞式でのショーをすることができなくなり、毎日新聞社がサンプル制作費を提供したなんてこともありました。 田代さんが伊勢丹の小柴社長に辞表を提出したちょうどその日、電話をもらいました。その夜スケジュール調整が可能だったので、荒木町の割烹店で合流、もう一人呼ぼうじゃないかとニューヨーク時代から親交のある三越の山縣憲一さんを誘いました。「で、今度はどこに行くの」と私が質問したら、「まだ内緒」と田代さん、でもピカピカGマークのバックルベルトにGマークのネクタイだったので想像はつきました。ただ、このとき紹介した三越の山縣さんまでが田代さんと一緒にグッチジャパンに移籍するとは想定外でした。 伊勢丹はバーニーズへの出資で大きな火傷をしましたが、田代さんを筆頭にバーニーズジャパンは多くの優れた人材を輩出しました。言い換えれば、授業料は高かったけれど、日本の流通業界で活躍する人材育成プログラムではなかったかと思います。 写真:発祥の地7番街に新店をオープン、しかしその後に再び倒産。 参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/バーニーズ・ニューヨーク お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.09.06 16:10:33
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