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売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

Nobuyuki Ota

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2022.09.19
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昨年11月、元文化出版局編集者の市倉美登子さんが介護施設で亡くなりました。私の親友だったイッチャン、毎日新聞社編集委員市倉浩二郎さん(1994年に逝去。52歳)の奥様です。美登子さんが編集長をしていたこともある雑誌ミセスが廃刊になると聞いて、昨年春私はミセス最終号を介護施設に送りました。姪御さんによれば、私が送ったミセス4月号を見ているときはキリッとした編集者の目をされたそうです。



(高田賢三さんと市倉美登子さん。2017年撮影)
 
市倉編集委員が関わった毎日ファッション大賞、今年も明日授賞式が行われます。初期の選考委員長だった鯨岡阿美子さんの名前を後世に残そうと、二人で鯨岡阿美子賞の新設に奔走したことを思い出します。授賞式で配布される図録、昨年まで介護施設の市倉夫人に届けてきましたが、今年はもう送れません。ちょっと寂しいな。

 

イッチャンは元社会部の硬派記者でした。ロッキード事件で田中角栄元総理大臣が逮捕され、後継者の三木武夫総理を引き摺り下ろそうと自民党各派が「三木おろし」を画策していたとき、彼はホテルの一室での密談を記事にしたそうです。そのことが大きな波紋となり、その直後にイッチャンは社会部から外されたと本人から聞きました。

 

市倉さんがファッションも担当する編集委員として私の前に現れたのはCFD発足から1年経過した1986年秋だったと思います。何のショーだったかは忘れましたが、文化服装学院遠藤記念館でのファッションショー終了後に名刺を交換、「今度一杯付き合ってください」と言われ、数日後に四ツ谷荒木町の大衆居酒屋で会いました。

 

このときどういうわけかイッチャンは自分が離婚経験者だと突然言い出したことを覚えています。初対面の私になぜそんなことを言い出したのかはわかりませんが、二人でかなりの酒量、酔っ払って気を許したのかもしれません。美登子夫人によれば、「イッチャンはあなたと本当に気が合ったのね。今晩は太田と飲むぞと出かけると決まってグデングデンに酔っ払って帰ってきたわ」。はい、私もイッチャンとの飲み会は毎回グデングデンでした。


右から市倉浩二郎さん、久田尚子さん、私


当時CFDがオフィスとして借りていた南青山の賃貸物件は、玄関と勝手口の2箇所ドアがありました。毎日新聞社編集委員として取材にくるとき、市倉さんは事前にアポを取って玄関チャイムを鳴らして入ってきました。しかし、友人イッチャンはいつも勝手口からノーチャイムで入ってきてオフィスの冷蔵庫を勝手にゴソゴソ、ときにはレアな日本酒を持って「おい、飲むか」、と。公と私をしっかり分けて接してくれた友でした。

 

19943月のパリコレ出張直前、市倉編集委員はいつものようにアポを取って取材に。このとき「今シーズンでパリコレは最後にする。パリコレ取材は誰かに任せて、俺はデザイナーの背後にいる技術者たちのドキュメントを書きたい。おまえ、手伝え」。彼はワイン、スコッチ、日本酒など醸造現場を取材し、お酒にはかなりの知見がありました。が、自分はお酒のプロではないからと遠慮して一冊の本も書かなかったんですが、やっとファッションデザイナーを支える技術者や機屋のことを本にするぞと言い出したのです。

 

パリコレから帰国して東京コレクションが開幕、初日最後のショーだったユキトリイの直前、私は通りかかったカフェで一服する市倉夫妻、帽子デザイナー平田暁夫夫妻らを見つけ、皆さんと雑談。このときの会話は健康維持のためのドリンク、でもイッチャンは「あんな不味いもの飲めるか」と無視でした。

 

みんなでユキトリイのショーに出かけ、その後別れました。ショー終了後、イッチャンは「気分が悪い」と鳥居さんの打ち上げパーティーをパスして帰宅、翌日救急搬送されました。その後3週間救急治療室で意識不明のまま、結局私たちの目の前で息を引き取りました。救急治療室の控室で「イッチャンがいつも言ってたわ。太田は本当にやりたいことが別にあるんだって」と美登子さんから言われ、「もしも旦那が亡くなったら、僕は辞表を出します」、そんな会話をしながら毎日快復を待ちました。


人の死に目に立ち会ったのも、遺骨を拾ったのも、私には初めての経験、大親友の死に大泣きしました。
そして、1冊の本を書く時間もなかった友人の急逝に、「人生は短い」と実感しました。やりたいことをやらずに死ねない、イッチャンの告別式直後に私はCFD議長退任を申し出ました。



(ご自宅は昔のまま残っていました)
 

イッチャンが亡くなって数ヶ月後、美登子夫人から電話をいただきました。シャンパンのモエエシャンドン創業250年祭で市倉さんが前年にフランスから持ち帰った籐の籠に入った記念マグナム、これは私が譲り受けるべき、と。後年モエエシャンドン関係者に聞いた話では、この記念マグナムは3人の日本人(他に有名なソムリエと洋酒メーカー経営者)に手渡された貴重なボトル、それを奥様からいただきました。

 

故人が大切にしていたシャンパンだから有効活用しなくてはバチが当たります。10年間CFD責任者としてお世話になった東京コレクションの施工業者幹部を集め、後継議長の久田尚子さんを紹介する宴席でこれを開けました。いくらマグナムでも10人で飲んだらあっという間になくなり、近所の高級スーパーでモエの上級ブランドであるドンペリのマグナムを調達しましたが、ドンペリよりもモエ記念ボトルははるかに美味しかった。いまもわが生涯一のスペシャルなシャンパンです。

 

(鍵屋の煮やっこ)

イッチャンが救急搬送される前に食べた最後の晩餐、それはシンプルな「煮やっこ」でした。お酒の飲めない美登子さんをイッチャンが初めてデートに誘ったお店は、鶯谷の歴史ある居酒屋「鍵屋」、酒飲みには喜ばれるかもしれませんが、初めて女性を招待するようなお店ではありません。冷やっこ、煮やっこ、味噌田楽、豆の煮物くらいしかおつまみがない、男くさい殺風景な居酒屋なのです。二人には思い出深い鍵屋風シンプルな煮やっこ、これが最後に美登子夫人が作った手料理になってしまったそうです。虫の知らせなのでしょうか。


いまごろあの世で夫人の作る煮やっこで
イッチャンは一杯やってるでしょう。






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Last updated  2023.08.18 18:42:58
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