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売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

Nobuyuki Ota

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2022.09.24
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現在六本木ヒルズ森タワーがある場所はヒルズ再開発前までは一般住宅が建ち並ぶ居住地区、その一画の古い一軒家にファッションショー演出家の草分け的存在だったシゲルこと木村茂さんは住んでいました。毎年ゴールデンウイーク寸前にはシゲルお誕生会が開かれていました。

1994
4月も恒例のお誕生会が予定されていました。そこに飛び込んだシゲルさんとも仲良しだった毎日新聞編集委員市倉浩二郎さんの訃報、シゲルさんから「キャンセルすべきよね」と電話が入りました。イッチャンは中止なんて望んでないから予定通り開催すべきと私は返し、シゲルお誕生会は決行されました。



当日お酒が進むうち、私は酔っぱらってシゲルさんの頭を叩きながら「なんで市倉が死ななきゃいけないんだ」と泣き叫び、出席者をびっくりさせてしまったようです。その後どうやって帰宅したのかは覚えていませんが、読売新聞ファッション担当記者だった宮智泉さんがタクシーで送ってくださったことだけはうっすら覚えています。そして翌日、私は人生で最も酷い二日酔い、イッチャンのお通夜はその翌日だったので助かりました。

木村茂さんの存在を知ったのは1985年東京ファッションデザイナー協議会設立時。当時デザイナーのファッションショー演出を担当しているプロデューサーたちに協議会設立の背景と今後の東京コレクション運営を説明して協力を求めて歩いたときでした。当時はまだ珍しい「おねえ言葉」のとてもおしゃれな方でした。

協議会が正式に発足し、代々木体育館の団体バス駐車場に特設大型テントを建てることが決まった時点でショー演出関係の皆さんに集まってもらい、テント内に設置するランウェイの基本形を決める会議をセットしました。基本形のステージ幅と長さを決めないことには建築申請の図面が引けませんから、皆さんのご意見を集約しようと会議を招集したのです。

しかし、その場である演出家から、「どんな覚悟であなたは協議会を引き受けたのか」と、米国から帰国以来これまで何度も答えてきたことを再び質問されました。事前に演出家の皆さんには協議会設立の経緯や目的を何度も説明してあり、質問された方にも個別に十分説明済み、どうして再びここで説明しなきゃいけないのと思った私は、「嫌になったらニューヨークに戻りますから」とぶっきらぼうに返しました。

この態度が紛糾の原因でした。「そんな姿勢なら協力できない」と言い出す演出家まで現れ、ランウェイの基本形を決めるどころではなくなりました。そのとき助け舟を出してくれた一人がシゲルさんでした。「太田さんが決めたらいいのよ。私たちはそれをもとに演出を考えればいいんだから」、この一言でどうにか基本形の幅と長さは事務局サイドで決めることになりました。

​シゲルさんは学生時代からファッション業界に足を踏み入れ、ファッションブランドや小売店にクリエーションのサポートをしてきた不思議な人。日本大学の普通の学部(芸術ではない)を卒業して新宿高野にスタイリストとして就職、販促のためのファッションショーをたくさん手掛け、新宿2丁目の飲み屋街でファッションや芸能界の人脈を広げていったようです。私もイッチャンと共によく2丁目のバーに連れていってもらい、テレビでよく見かける歌手たちを紹介されました。

AFP通信のインタビューでシゲルさんはこんな発言をしています。

ディレクターの要件は、ファッションについて自分の中にブレないポリシーをもっていることだが、デザイナーの得手不得手をつかんで歩み寄ること、時代の背景にアジャストさせる努力が欠かせない。人と人が出会って、その付き合いの中で何かが分かり、何かを作っていくこと。それがアタシの仕事。

シゲルさんが演出を担当するブランドには共通点がありました。代々木体育館駐車場に建てた特設テント脇には私たちが常駐する事務局用プレハブがありましたが、木村茂演出のブランドチームがテント入りするとまずデザイナーがちゃんと事務局に「お世話になります」と挨拶にきました。ショー終了後にはこれまたキチンと楽屋や客席の清掃を済ませ、「お世話になりました」と挨拶。シゲルさんが厳しいからでしょう、これが徹底していました。

当時搬入の際にろくに挨拶しないメゾンもあれば、ショー終了後客席を綺麗に清掃せず搬出してしまうメゾンもあり、ろくに清掃しないで自分たちの打ち上げパーティーに行ってしまう最悪ケースもありました。協議会事務局はコレクション期間中だけ多くのアルバイト学生を採用しますが、彼らの目にも礼儀正しいブランド企業や演出チームのことはわかりますから、シゲルさん自身とそのサポートを受けるデザイナーたちはアルバイト学生の評価は高かったです。

話は少しそれますが、アルバイト学生や事務局スタッフの間でこんな話もありました。ある若手デザイナー企業、リハーサルと本番の合間の遅いランチに彼らが目撃したのは、デザイナー本人だけが豪華なお弁当でメゾンのスタッフや楽屋フィッターさんには駅弁のような小さな弁当。トップデザイナーでさえこんなことはしないので、この若手デザイナーへの評価は一気に下がりました。こういう話、いまならSNSで拡散されていますよね。

企業デザイナー歴の長かったセブレの大田記久さん(1988年度毎日ファッション大賞新人賞)や
ローズイズアローズの比嘉京子さん(1990年度新人賞)をまるで我が子のように、時には厳しく時には優しくシゲルさんは教えていましたが、ショーの演出以上にものづくりの姿勢やショーのお客様に観ていただく姿勢をうるさくアドバイスしていたのが印象的でした。演出家にはファッションの知見、音楽や空間演出のセンスが必要でしょうが、それ以前に人間としての礼儀も大切、そのことを演出するメゾンの関係者に指導して欲しいです。

長くフリーランスで活躍していたシゲルさんの若手指導に着目したSUNデザイン研究所の大出一博さんは同業者のシゲルさんに声をかけ、自社に幹部として迎え入れました。人材育成が狙いだったと思います。シゲルさんは若手の演出家たちを引き連れて新宿2丁目によく現れ、自身の仕事の哲学や過去のユニークな経験を堅苦しくならないように伝えていました。

2014
11月、シゲルさんは癌で亡くなりました。享年70歳、もう少し長生きして後進の指導をして欲しかった人です。​​






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Last updated  2022.09.29 17:10:29
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