言わずもがななんて存在しない。
私は一人っ子で、日本人の父親と台湾人の母親の間に産まれたゆえ、一通りの世にあるいじめは受けてきました。母は台湾人と言ったって、少々日本語が不自由な位で黙っていれば日本人と変わらない。だから、幼い子供に母が外国人だなんて分かるわけがない。なのに幼稚園、小学校でいじめを受けたってことは、親がきっと子供に言っていたんだろうな、と大人になった今思う。当時は疑問に思って無かったけれど。そんなことはさておき。これは生まれ持ったものだと思うけれど、そういう数々のトラブルを私は誰かに伝えたりせず、一人で全て解決して来てしまった。話してしまったら、母は自分を責めるだろうというのは幼心ながら分かっていたからだと思う。外でだけではなく、家の中でも、祖母や伯母叔父たちに数々の虐待を受けていたので、余計に言えなかった。いや、言ってどうなると諦めていたと言う方が正しいかも知れない。そんな癖が幼いうちから付いてしまった私は、一人で何でも抱え込んで頑張りすぎてしまうタイプの人間に成長した。何事も私がやらなきゃ!という焦燥感で一杯になってしまうのだ。仕事などでは、それは仕事だからと割り切って特にキャパオーバーになることはなかった。けれど、家では違った。色々な家事雑用を、途中までは静かに当たり前のように私は黙々とこなす。けれど、ある時突然キャパシティオーバーしてしまう。前触れがないのだ。突然切れて、「何で私はこれだけ頑張っているのにあなたは!共働きなのに!私だって疲れてるのよ!」という現象を起こしてしまうことが、度々。そりゃ夫は驚く。ど、ど、ど、どうしたの?である。この現象。誰が悪いかってはっきり言って私が悪い。気の利かない夫ではなく、人に物事を頼めない私が悪いのだ。自分で自分を追い込んで切れて気分悪くなって喧嘩までしている。無駄。どうにか治したいと思いながらも治らなかったこの癖。それが、一昨年色々あってうつ病を経験してからは、医師のカウンセリングや自分ときちんと向き合う癖をつけた結果、こういうことの無いように、夫に色々なことを早めに吐露することができるようになった。言わずもがな、何てものは存在しない。察してよ!というのは甘い。夫婦であろうと親子であろうと、別の人間なのだ。もちろん、相手の気持ちを推し量る思いやりは必要だけれど、基本的に何事も言わなきゃ分からない。助けを求めなきゃ助けは来ないのだ。口に出して態度に出して相手に伝えなければ、感謝も憤りも相手には伝わらないのです。そんな色々を経て、私たち夫婦は最近、お互いきちんと口に出して「ありがとう」を言うようになった。特に夫は、毎日何か私がする度にとても些細な事に対しても「ありがとう」と言ってくれるので、毎日とても幸せな気持ちになる。そして、私もどんな些細なことでも、きちんと口に出して「ありがとう」を言えるようになった。相手が変われば自分も変わるし、自分が変われば相手も変わる、ということをすっかり表していると思いませんか?変わろうと努力すれば、少しずつではありますが、お互い変わっていけるんです。何かして欲しければ、まず自分がしないと。それ以前にして貰ってる事に対して、きちんと相手に伝わるように感謝しているのだろうか。そんな相手への気持ちひとつで人間関係って大きく変われるんじゃないかな。伝わってるだろうではなく、分かってるだろうではなく。きちんと伝えよう、分かってもらおう。にしなきゃダメ。私の当たり前は、自分にしか通用しません。