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日本と印象派の関係は、まさに「印象派誕生のその日まで遡る」のです。
それは印象派の多くの作家に影響を及ぼした「浮世絵」です。 「印象派たちの、純粋な色彩をフラットな平面に塗る手法や、革新的な構図に多くのアイディアは、浮世絵という先例からもたらされた。」 ゴッホなど、まさに浮世絵を油絵で描いた直接的な作品さえあります。 そうした関わりが見られるのは、1878年の万国博覧会のころから、印象派の絵画を浮世絵と交換することで入手していた林忠正という人物の存在です。 林忠正も印象派の作家も、当時、どちらもお金がなく、それでも、お互いその作品の価値を認めていたからできた、というのは素晴らしいと思います。 絵画の価値での交換です。 それが1980年代になると、まったく違った対応になってきます。 当時、バブルの時期です。日本の会社が、お金にものを言わせて名画を購入します。 その象徴的な出来事として、2つの事例があげられています。 一つは、1987年にあったゴッホの「ひまわり」の購入です。 購入したのは、安田火災の美術館、安田火災東郷青児美術館・現損保ジャパン東郷青児美術館です。 購入金額は、当時として破格の2475ポンド。日本円で58億円でした。 この金額、それまでの最高記録の3倍の金額と書かれていますから、いかに高額だったかわかります。 この購入に関しては、この本でも好意的です。 ゴッホのひまわりを購入した1987年の10月から12月にかけて、10万人を越える人々がこの絵を見に美術館を訪れた、ということで、会社の保険契約数の増加に結びつき、採算がとれて、成功した例だと、書かれています。 (こちらは、現在、私が関係している美術館なので、別のところで書きます)。 もう一つは、大昭和製紙の会長の斉藤了英が購入した、ルノアールの「ムーラン・ド・ギャレット」とゴッホのガッシュ医師を描いた肖像画の2点です。 購入したのは、1929年のことです。バブルの崩壊が来ていました。 購入したとき斉藤了英は、「もし今、私が買わなければ、これらの絵はもう2度と日本にくることあないだろう」と言っていたのですが、1年もしないうちに、所得税に関する税務監査にあい、「私が死んだときには、(絵)を棺の中に入れて私と一緒に燃やしてくれ」という発言をします。 これは当時、話題になりました。 もちろん避難轟々でした。 そうして、日本経済が崩壊すると、日本の印象派熱の根底にあった腐敗が明らかになっていった、と記されています。 「多くの絵画は、美術が好きだからという理由で買われたのではなかった。お金を動かす道具が必要とされていたために、絵画が利用されていたのであり、しばしば不正のものだったのだ。」 絵画購入は多く、財テクの手段だったのです。 そうなるには、印象派の作品が好きという多くの人の本意があってのことなのですが、 恥ずかしい事態だったと思います。 斉藤了英の購入した絵は、幸い、棺とともに焼かれることなく、それぞれ、その絵にふさわしい環境に移されているとのことで、良かったです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.01.06 21:50:22
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