身体のあちらこちらにガタが来て、そのうちガンの宣告を受けることになるのだろうな、となんとなく思っていることがあります。
歯の虫歯をそのままにしていたら、とうとう歯が欠けてしまいました。それでも歯医者に行くのを伸ばしていたら、また欠けました。とうとう、お医者に行きました。
治療を受けると、何かホッとします。それなら早く行けばいいのですが。
川本三郎さんの『いまも、君を想う』(新潮社)を読みました。
奥さんを亡くしてからの暮らしの心情を、丁寧にたんたんと書かれています。
しみじみと感ずるものがあり、いろいろと考えさせられます。
そういう年齢ということでもあって、身にしみます。
本を読みながら、どうしても自分のことと比較してしまいます。
私も子どもがいません。二人の暮らしを40年ぐらい続けています。
どちらかが先に死ぬことは確かです。
『いまも、君を想う』
<奥さんは、スペイン・オムレツが得意だった。夫の服装をいつも決めていた。隅田川の東岸の居酒屋で煮込みを一緒に食べた。猫が好き。紫陽花が好き。二人でした旅行の思い出がある。>
食事のこと。
私たちにも思い出になりそうな店、いくつかはあります。連れ合いと同じ店を思い出すかどうかはわかりません。いつか話をしてみようかな、と思います。
川本三郎さんは、一人になっても食事をきちんと作っておられます。
私はどうでしょう。
いくらか今でもやっているのですが。一人で作って食べるということはあるかな、と考えると、料理はしていない可能性の方が大きいと思います。
服装のことが出ています。
私も、あまり服装を気にしないので、いつも叱られています。
着たきり雀か、とにかく、だらしなくなりそうです。
犬を飼っていました。
今も犬を飼いたいな、という話をします。
紫陽花は好きで、このところ毎年紫陽花を見に出かけています。
二人で旅行をしたか。
今、とにかく外国旅行に連れて行くようにと連れ合いに言われています。
それに対して、私は、ボランティア活動にかまけて、家を留守にすることが多く、外国旅行をしようという気持ちを持っていません。
きっと後悔する、と言われています。死んだとき連れて行けば良かったと。
とにかく、予定表は3分に2が埋まっていて、外国旅行の余裕はありません。
そうなると私自身、旅行はあまり好きではないのかな、と思ったりします。
確かに行くと、良かったときっと思うのでしょうが。
葬儀式についても書いてありました。
人間の暮らしに日常とは別に流れる「儀式」が必要だと書いて「葬儀はその儀式の中で最も厳粛なもの。死という圧倒的な不条理を前に『形式』は必要だと思う。悲しみという生まの感情を形式によって一度冷却する」とあります。
葬儀はできればしなくていいと思っていたのですが、少し考えてみたいと思いました。
他にもいろいろ考えさせられました。