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箱庭

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鳥海摩耶

鳥海摩耶

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2012.11.17
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カテゴリ:HoI2AAR
 スペインが対ソ宣戦する直前の8月23日、アメリカ欧州派遣軍は第2アフリカ大陸派遣軍と名を変え、リーブルビル及びバナナに上陸。スペインを発った後はアフリカ西岸のイギリス領を飛び石的に渡り、最終的には比較的大きな港湾施設のあるフリータウンを拠点とした。第1アフリカ大陸派遣軍と東西から挟み撃つ形になり、連合国の残存部隊は更に追い詰められて行った。

 9月4日、ベルギーの暫定首都レオポルドビルが陥落し、ベルギーが降伏。続いて8日にはフランスの暫定首都ブラザビルに第2アフリカ大陸派遣軍の山岳兵軍団が雪崩込み、アメリカ政府はフランスの併合を宣言した。追い詰められた連合国勢力はナイジェリアのカノに集結。カノはサハラ縦断貿易の要衝であり、交易の拠点であったが、数日の内に数万の兵士で一杯になった。

 やがてアメリカ軍が迫り、カノ市街はにわかに騒がしくなっていた。残された数少ない車両は家屋に隠匿されたが、少しずつ少しずつ数を減らされて行き、連合軍の抵抗力も少しずつ削られて行った。カノの包囲網が完成したのは9月27日であり、総攻撃は翌日から始まった。そして、9月30日には最後の部隊が降伏。

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 このため、連合国で抵抗を続けているのは南アフリカただ1国となり、その南アフリカも10月13日、首都ヨハネスブルクが海兵隊の攻勢によって陥落。結果、連合国との戦争は完全に終結した。



 モスクワを追われて以来アジア国家と化したソビエトにとっても、今回のアメリカ勢力との戦争は青天の霹靂であった。英仏亡き後世界最強の経済力と国力を持つアメリカとの戦いは、国力と国土が文字通り半減したソビエトには荷が重すぎたのだ。また、国防においてもウラジオストクからパミール高原に至る直線距離で約7500kmにも及ぶ長過ぎるアメリカ同盟諸国との国境線を抱えており、全戦線を維持できる力はすでにソビエトには残っていなかった。

 ソビエトと国境を接していたのは、大日本帝国(朝鮮、新彊)、中華民国、満洲国であった。対ソ戦の緒戦、ソ連軍と戦ったのはこれらの国々である。大日本帝国は海軍艦艇を9割以上失ったものの、陸軍については支那事変以来の部隊が大陸にかなり駐留しており、朝鮮と新彊からソビエト連邦軍に攻撃を加えた。この攻勢に中華民国や満洲国の軍も参加し、ソビエト、モンゴルとの国境の至るところで戦闘が勃発した。特にウラジオストク周辺ではソ連軍との間で激しい戦闘が展開され、一進一退を繰り返した。

 やがてアフリカでの戦闘が終わり、アメリカ軍の介入が確実になると、ソ連軍司令部ではアメリカ軍がどこに投入されるかで議論になった。パミール高原、満洲、カムチャツカ半島が主な候補地であった。

 パミール高原はノボシビルスクやオムスクといったソビエトに残された数少ない工業都市から最も近い場所であるが、山岳地帯であるため部隊の移動や機甲戦力の投入に不利だった。満洲は平野部が多くアメリカ軍が基地を持つ大連(対日戦勝利時に獲得)からも支援が可能な場所であったが、それだけにソ連軍が防衛に力を入れていたため大兵力がぶつかり合って消耗戦の様相を呈し始めており、大きな犠牲を払う陸上決戦を避ける傾向のあるアメリカ軍が素直に兵力を回すかどうかが分からなかった。カムチャツカ半島は独ソ戦でソビエトが敗れた際に大日本帝国が火事場泥棒的に掻っ攫ったものだが、太平洋戦争の結果、今度はアメリカの手に渡っていた。しかしカムチャツカ半島は多くの火山を抱える上、ペトロパブロフスク・カムチャツキーなどの良港は完全に陸の孤島であり、補給体制を整えるのが困難であった。

 どこの候補地も一長一短であったが、ソ連軍では友軍が多く、比較的大兵力を運用しやすい満洲を第1候補とし、続いてパミール高原、カムチャツカ半島の順と考えていた。しかし、パキスタンのカラチに大兵力が陸揚げされたとの情報が入るのは、それから間もなくのことである。

 アメリカ第1、第2アフリカ大陸派遣軍は、統合されて大陸派遣軍と名を変えてパミール高原に集結した。パミール高原はとても車両が走り回れるような土地ではなかったが、大陸派遣軍の総司令官に任命されたアイゼンハワーは大量の重機を持ち込んで道を造りながら前進するという強引な手法を取った。冬期の山岳地帯の行軍は困難を極めたが、1947年の年明けには攻勢に移ることが可能となった。機甲戦力や砲兵の繰り出す支援砲火の中、山岳兵軍団が縦横無尽に駆け回ってソビエト領内に侵入した。

 パミール高原を抜け、ソビエト領内を数百km駆ければ、大陸派遣軍の前には広大な平野であるカザフステップが広がっていた。ここまで来ればアメリカ陸軍自慢の機甲戦力や航空戦力が活躍し始めていた。かつてそれらを大量に揃えていたソ連軍ではあったが、独ソ戦に敗れた結果機甲戦力や航空戦力の技術開発や生産の拠点を失っており、以前から見れば大幅に弱体化していたソ連軍の戦力では、アメリカ軍の陸上部隊、航空部隊の協調を重視した戦術には対抗し得ず、次々に撃破されて行った。

 かつてのソビエトならば、ある程度領内に踏み込まれても戦略的な懐の深さでまだまだ抵抗することは可能であっただろう。しかし、ソビエトはすでにそれを失っており、カザフステップやその北方の西シベリア低地にはソビエト工業の中核地域が広がっていた。それを防衛すべきソ連軍は次々に撃破され、ソ連軍は自国民に次第に見放され始めていた。一部の村では、アメリカ軍を「解放軍」として迎えたほどである。

 こうした圧倒的な戦いを見たドイツ第三帝国は、春になってから再びソビエトに割れた鏡を叩きつけた。

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 それはすなわち、ソビエトが地球上に存在するほぼ全ての国々を相手にすることを意味していた。

 アイゼンハワーはドイツ第三帝国の干渉を防ぐため北方に兵を進めた。ウラル山脈を越えて進軍して来るドイツ国防軍とシベリアを分断するためである。その目論見は成功し、ドイツ国防軍とシベリアは分断される。ヒトラーは再三トルーマンに軍の通行許可を求めたが、トルーマンは意に介さずにアイゼンハワーに軍を進めるよう命令を発した。結果、ドイツ第三帝国が得た領土は西シベリア低地の北部、しかもごく一部に留まる。

 9月14日、満洲国がモンゴルを併合。ソビエトは完全に孤立し、領土もVPもほとんど失って死に体であった。そのソビエトもヤクーツクの陥落に伴い併合条件を満たし、ついにその巨体と共産主義を標榜する国家ともども地球上から消えた。

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 これにより、各陣営の戦後処理が加速して行く。



 対ソ戦後、トルーマンは2度目の世界大戦を防ぐことができなかった国際連盟の代替組織を設立することを提案した。この意見は世界中で高く評価され、国際連盟の発展的解消とともに国際連合の設立へと繋がって行く。しかし、新国連の設立をもってしても、米独の静かな対立を防ぐことはできなかった。

「新連合国」と呼ばれ始めたトルーマン率いるアメリカ勢力は、中小国まで含めれば30ヶ国以上が参加する大軍事同盟であり、世界中に展開できるだけの強力な軍隊を持っていた。しかし、その同盟は決して安定的なものではなかった。

 対ソ戦後、大日本帝国との戦いで台湾を占領しながら一方的に放棄させられたフィリピンがそれを理由に同盟を脱退。国連の構想には参加し続けたものの、軍事的には孤立主義を強めて行った。その後もコスタリカやメキシコなどは同盟参加と脱退を繰り返した。

 一方のドイツ第三帝国を盟主とする枢軸国は、陸空軍についてはアメリカに匹敵する軍隊を揃えていた。しかし、海軍戦力では大きな開きがあり、特に米英日といった大洋を挟んだ国家に直接乗り込んで戦うことはこの時点ではできなかった。ある程度海軍を強化していたイタリアにしてもジブラルタル及びスエズという地中海の東西の出入口を新連合国に押さえられていたため、大西洋やインド洋に進出して戦うという戦術は考えにくかった。このため、ドイツ国防軍は海軍戦力の強化に励むことになるが、それは新連合国を刺激するには充分であった。

 アメリカは大日本帝国やイギリスに海軍艦艇の売却を進めた。特に大日本帝国には旧式空母6隻、戦艦8隻を譲渡し、同国海軍の再建に力を貸した。アメリカ国内ではかつての敵国に旧式とは言え主力艦を売却することに対し反対の声があったが、トルーマンはクリーグスマリーネ(ドイツ国防海軍)の増強や、いざ戦争となれば大日本帝国海軍が中東のシーレーン防衛を担うと約束させたことを理由にその声を押し切った。

 また、陸海軍の再編が行われた。新設された国防総省の下に法的地位のあやふやだった統合参謀本部を置き、空軍及び海兵隊を独立させた。こうして、国防総省は現代に至るまでアメリカ軍を構成する5軍の内、沿岸警備隊を除く陸海空軍及び海兵隊の指揮権を率いている。初代国防長官には統合参謀本部議長だったダグラス・マッカーサーが就任した。マッカーサーはトルーマンと協調して軍の装備更新を進めた。対日戦、対連合国、対ソ戦という大戦争は終わったが、第三帝国の圧力が強まる中で、兵の数を維持しつつ質を向上させるためであった。特に歩兵軍団の自動車化は、後世でも高く評価されている。

 これに対抗する形で、ドイツ国防軍も肥大化を進めた。海軍は空母20隻を揃える大建造計画を実行に移し、陸空軍も国土増大に伴い強化されて行ったのである。

 そして、新連合国と枢軸国の対立が顕著に見られたのが、アフリカ植民地問題であった。ルーズベルト以来の反植民地主義を掲げて支持を受けていた新連合国に対し、イタリアや親枢軸国のポルトガル、ヴィシーフランスはアフリカに植民地を抱えていたため、対立するのは目に見えていた。その上、旧連合国勢力を追い出す際に旧イタリア領であるエチオピアやリビアにも進出したアメリカはエチオピアを独立させ、リビアの「解放」を求めて戦後も撤兵しなかったため、米伊関係は極度に悪化した。

 イタリアは植民都市の1つであるトリポリに兵を集め、アメリカはトリポリに程近いスルトや同じくリビア内のベンガジ、エジプト最大の都市アレクサンドリアの軍事基地を強化し、橋頭堡とした。また、一度本土に引き上げた陸軍部隊をアフリカ大陸派遣軍として再編成してリビアに派遣した。増強に次ぐ増強は軍事的な緊張を高めて行き、一触即発の空気を前線に漂わせつつも、不気味な沈黙が続いていた。


続く。

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最終更新日  2012.11.17 13:10:03
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