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鳥海摩耶

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2012.11.18
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カテゴリ:HoI2AAR
 1948年に行われたアメリカ合衆国大統領選ではアフリカ植民地問題への対処が焦点となり、対枢軸強硬路線を主張するトルーマンが宥和政策を唱えるデューイを僅差で破って2期目に入った。トルーマンはこれ以上軍事的緊張を高めることは再度の戦争を呼ぶと認識しており、緊張緩和の方法を模索する一方で枢軸国の封じ込め政策を進めた。

 これは、1947年の一般教書演説で示されたトルーマン・ドクトリンと呼ばれる外交政策に加えられた政策方針であった。これまで世界の紛争に介入し、「平和維持」に尽力して来たイギリスの後継者であると自ら宣言し、アメリカ大陸以外にも積極的に介入するという方針を示したものであり、対ソ戦の遂行中にイタリア領ギリシャにて発生した一斉蜂起を挙げて「もし彼らを支援しなければ世界中でファシズムと植民地主義のドミノ現象が起こるだろう」と述べた。

 新しく国務長官に任命されたジョージ・C・マーシャルは、トルーマン・ドクトリンに基づき親枢軸国の切り崩しにかかった。主な標的となったのはヴィシーフランス、ポルトガル、スイス、トルコである。ドイツ第三帝国の影響が色濃いヴィシーフランスについてはフランスにおける唯一の政府であると認定し、ペタン将軍の独裁について「民主的な改革を望む」とだけ注文を付けるに留めた。ポルトガル、スイス、トルコは枢軸国の勢力圏に近く、どうしても影響を受けやすい国家であった。特にスイスは国際決済通貨の1つであるスイス・フランの発行元であったり、厚いベールに包まれた銀行を抱えていたりと小国でありながら経済的に重要な地位を築いており、永世中立を標榜しつつも世界有数の軍事産業をも擁する見過ごすことのできない国家である。世界最大のGNPと金と唯一交換できる通貨たるドルを持つアメリカ合衆国といえども協力関係を築いて損はなかった。

 このアメリカの外交攻勢に対抗し、ヒトラーは中南米諸国との結びつきを強化し始めた。中南米諸国はアメリカが取り込みに入っており、「南北アメリカ大陸の連合により全体主義と相対する」とトルーマンが表明した矢先の動きであった。中南米を裏庭とするアメリカにとって、中南米の不安定化は国益を損ねる。それを米独両国ともに理解していたがために始まった鞘当である。ドイツ第三帝国が特に重視したのは、南米第2の大国アルゼンチンであった。

 アルゼンチンでは第2次世界大戦中に枢軸国寄りの中立政策を表明して支持を伸ばしていたフアン・ペロン率いる統一将校団(GOU)が実権を握り、フアン・ペロンが大統領に就任していた。その外交政策はアメリカにとって好ましいものではなく、アメリカが後押ししたクーデター未遂事件も発生したほどである。枢軸国寄りになるのは当然とも言えた。直接的な支援を出せないアメリカに対し、ドイツ第三帝国は公然と兵器の輸出に踏み切り、両者の応酬は激しいものとなって行った。

 アメリカは対抗策として南米最大の国家でありアルゼンチンの隣国であるブラジルに歩み寄った。そのブラジルは、1948年12月30日に新連合国に加入した。これで新連合国に加入した国家は55ヶ国となった。

 このように新連合国と枢軸国がせめぎ合う中で、新国連(United Nations)が設立された。1949年10月24日のことである。ただし、枢軸国はアメリカ主導の国際組織創設に難色を示し、オブザーバー参加となった。

 国連は国際的な共通の課題の達成を目指し、世界の安全保障と経済・社会の発展を目的とした国際連盟の発展的組織であり、いくつかの組織は国際連盟から引き継いだ。しかし、枢軸国の妥協を得るために国連に与えられた権限は必ずしも強力ではなく、目標とされた「全ての国家に平等な発言権を与える場を設ける」という理想も未達成となった。



 1950年1月5日、ホワイトハウスに激震が走った。かつてアメリカが独立を支援したインドが軍事同盟から離反したのである。ゲーム的には孤立志向の国家ではあるが、海軍艦艇を多数引き渡し、インド洋のシーレーン維持に貢献させようとしていたアメリカにとっては寝耳に水の出来事であった。当然ドイツ第三帝国の関与が疑われたが、インドのネルー首相はあくまでインド独自の判断と主張し、「アメリカの強硬なやり方には飽々した」と非同盟主義を掲げて中立国クラブという第3極の動きを模索し始めた。非同盟主義はアメリカ、ドイツ第三帝国が一致して妨害したため大きな動きに繋がることはなかったが、アメリカは安全保障戦略を練り直さざるを得ない状況に陥った。

 また、インドの離反によりそれまで熱烈な支持を得ていた対枢軸国強硬路線に疑問の声が投げかけられるようになり、アメリカの外交攻勢はやや鈍り始めた。このため、一部の国々では枢軸国に理解を示す国々も出現し始め、トルーマンは次第に板挟みになった。



 1952年となり、一歩前進一歩後退を繰り返したトルーマンと米民主党は徐々に支持を失い、迎えた大統領選では48州中39州を制した米共和党に敗れ、20年ぶりに政権交代が果たされた。
 共和党の大統領候補は対連合国戦以来の英雄であるアイゼンハワー、副大統領候補は海軍除隊後炭酸飲料メーカーのペプシコ社の弁護士として同社の国際的な展開に貢献したリチャード・M・ニクソンだった。大統領選の期間中、NYポストの新聞記事をきっかけにニクソンは不正な資金援助を受けたといういわれなき非難を浴びたが、当時普及し始めたテレビに着目し、テレビ番組に出演して自身の潔白を主張するとともに「物品の提供は受けていないが、支援者からコッカースパニエルを頂いた。しかし、娘が『チェッカーズ』と名づけてかわいがっているので返すつもりはない」と反論。加えて、自分が副大統領候補に相応しいかどうかの意見を共和党全国委員会に伝えて欲しいと述べた。ニクソンの慰留を求める大きな声を集めたこのスピーチはチェッカーズ・スピーチと呼ばれ、ニクソンと共和党への支持を広めることになる。


続く。

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最終更新日  2012.11.18 16:55:39
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