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箱庭

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鳥海摩耶

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非常口

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2012.11.22
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カテゴリ:HoI2AAR
 北海海戦とアフリカでの戦いに勝利した連合軍(と言うよりアメリカ軍)は、休む間もなくイタリア本土侵攻作戦を計画した。計画の前段階としてサルディーニャ島とコルシカ島への上陸作戦が行われ、6月末までに両島はアメリカ軍の手に渡った。イタリア軍は前大戦よりアメリカ軍が多用して来た大規模上陸作戦を警戒して沿岸部を中心に厚い防衛線を構築していたが、それは空から破られる。

 7月2日、ラスペツィア沖にアメリカ海軍の大艦隊が集結した。ラスペツィアには上陸作戦を展開できるだけの砂浜はなかったが、空挺軍団にとっては些事であった。ラスペツィア市街はその日の内に陥落。ラスペツィアの港湾施設には大量の揚陸艦が雪崩込み、兵士をどんどん陸揚げして行き、瞬く間に300個師団が展開。作戦を認可したアイゼンハワーすら「本当に成功したのか?」と呆気に取られるほど、あっさりイタリア戦線が幕を開くことになる。

 展開を終えたアメリカ陸軍大陸派遣軍は、まずドイツとイタリアを分断してドイツからの援軍を阻止すべく東進した。迅速な進軍により、イタリア軍が防衛線を敷き直す前にトリエステ及びトレントを占領し、スイス国境からトリエステに至るイタリア半島とドイツ第三帝国本国との補給線を分断。防衛線の構築とイタリア半島に残るイタリア軍の掃討に移った。

 作戦が順調に推移する中、アイゼンハワーはヴィシーフランスの中立化と第2戦線の構築に尽力した。大陸派遣軍の作戦はヴィシーフランスが中立であることが前提条件となっていた。ドイツ本国やバルカン半島から駆けつけて来た増援部隊の攻撃を捌きつつ、イタリア半島のイタリア軍を掃討するには兵力がやや不足気味だったことが後から分かったためである。トリエステ周辺では戦線が膠着していたが、小競り合いは日常的に発生しており、迂闊に兵力を引き抜ける情勢ではなかった。このような状況でスイスを挟んだアルプス山脈の西側からヴィシーフランス軍やドイツ国防軍がやって来るようなことがあれば大陸派遣軍の戦略が破綻することは明らかであった。

 アイゼンハワーはトルーマン前大統領が残した外交政策、すなわちトルーマン・ドクトリンの遺産を最大限活用した。トルーマン・ドクトリンの実行以来、ヴィシーフランスにはアメリカ資本とドイツ資本が流れ込んだ。親独国家ではあったが、軍事同盟を結ばずに中立に徹したフィリップ・ペタン将軍指導の下、荒廃した国土の復興を優先させた結果であった。1951年にペタン将軍が逝去すると、後を継いだピエール・ラヴァルも中立路線を維持して双方からの援助を引き出す戦術に出たため、援助合戦は激しさを増して行く。第3次世界大戦勃発後は、米独双方から強力な圧力をかけられる。その要求は対照的で、アメリカからは「参戦するな」と言われ、ドイツ第三帝国からは「参戦しろ」と要求されていた。

 断れば両者から武力行使もあり得る情勢で、ラヴァルは中立である時間を引き伸ばしてどちらが有利になるかを見定める決定を下した。事実上、ドイツ第三帝国からの参戦要求を突っぱねた形である。ヒトラーからは大きな恨みを買ったが、シベリア、中東、イタリア半島といった広大な戦線を維持しなければならないドイツ国防軍に、ヴィシーフランスを打ち倒す余力はなかった。

 後背の憂いを絶ったアメリカ軍は、安心してイタリア半島での戦闘に挑めるようになった。ムッソリーニの追放とともにピエトロ・バドリオ政権とイタリア社会共和国が成立するのは8月25日のことである。

 問題はその後であった。イタリア半島での戦いを終えた大陸派遣軍の前に立ちはだかったのは、幾重にも連なる陣地やトーチカに引き篭もった大量の枢軸軍の兵士たちである。スイス国境からトリエステまでの戦線はこの頃には完全に膠着しており、梃子でも動きそうになかった。彼我合わせて400個師団が睨み合う様は見ているだけならば壮観であったが、動いた方が負けという現実が横たわっていることに誰もが気づいており、ピリピリとした緊迫感と牽制のための砲声が聞こえる程度で、おびただしい数の兵士が存在していながら激しい戦闘が起こることは全く予想できなかった。

 そこで、アイゼンハワーは第2戦線の構築を指示。打開策を求めた統合作戦本部の手で早速検討に移された。第2戦線の構築自体は開戦前から検討されていたこともあり、間を置かずアイゼンハワーの手元に作戦計画が提示される。統合作戦本部が示した候補地は、フランス北部及び中東であった。

 フランス北部はドイツ本国に近く、ヴィシーフランスやスイスという戦略的な「壁」が存在し、後背にはグレートブリテン島という一大拠点が存在する最有力候補だった。一方で、多くの資源地帯を抱える中東はフランス北部に次ぐ候補地であり、大日本帝国軍が主力となって大兵力同士が乱戦を繰り広げていたペルシャにも近いこともあって同盟国の支援という観点からも検討の余地ありとされていた。

 アイゼンハワーはリッジウェイらと協議を重ね、最終的にフランス北部へ上陸部隊を送り、枢軸軍自体に打撃を与えるべくフランス北部にゲリラ的に上陸し、展開している枢軸軍を撃破、その後に状況が好転すればそのまま推進、逆に悪化すれば引き上げるという作戦を立案した。

 スペインとドイツ第三帝国領フランス北部の国境沿いでは小規模ながらもタワーができており、世界各地で見られていた連合軍と枢軸軍の睨み合いが続いていた。その後背部の都市ナント沖に、不意にアメリカ海軍の艦艇が多数現れたのは、9月20日のことである。イタリア戦線から引き抜かれた足の早い機甲軍団や機械化歩兵軍団がグレートブリテン島に集結して揚陸艦に乗り込み、第5艦隊の援護の下ビスケー湾を大きく回り込む欺瞞航路を取った後にナント沖に達した。急速に展開して行くことになるフランス戦線の幕開けは、このオーバーロード作戦が号砲となったのである。

 戦闘開始後、まず海兵隊6個師団が上陸し、防衛線を構築していたドイツ国防陸軍第352師団を退けてナントに橋頭堡を築いた。ドイツ国防陸軍の機甲師団はフランス北部のインフラが整っていたことも相まって高い機動力を誇ったが、舟艇機動を駆使するアメリカ軍の展開速度にわずかながら及ばず、ピレネー山脈にはドイツ国防陸軍B軍集団隷下の第15軍所属の57個師団が閉じ込められた。対するアメリカ軍は第2大陸派遣軍(フランス北部上陸部隊)の7割近くに当たる88個師団をこの包囲戦に投入し、9月25日からドイツ国防陸軍の解囲作戦が始まったのに合わせ、包囲網を圧縮にかかった。

 丸1日を要した攻防戦は制空権を奪取して航空優勢を得たアメリカ軍が圧倒して行き、最後の拠点ダクスにおける戦闘ではドイツ側の死者は2万名を数え、10万名という捕虜を出して全滅した。一部はヴィシーフランスに逃れた兵もいたが、早期にヴィシーフランスとの接点を絶ったアメリカ軍の攻勢によって第15軍は海岸側へと追いやられた結果である。この攻防戦によってドイツ国防陸軍B軍集団は総兵力の6割を失う大敗を喫し、フランス北部では戦略的に大穴が開いた。

 その後、第2大陸派遣軍司令部は当初できるだけ多くの枢軸軍を引きつけるために攻勢を控えていたが、11月に入って本格的な攻勢に打って出た。枢軸軍も部隊を掻き集めて反撃準備を整えていたが、イタリア軍の残存部隊やルーマニア軍やハンガリー軍など非ドイツ国防陸軍部隊が多く装備面で第2大陸派遣軍に劣り、戦局を有利にすることも攻勢を止めることもできなかった。11月13日にはパリに一部部隊が侵入。これにより、ブルターニュ半島に枢軸軍の30個師団が孤立した。

 この情勢に至り、ドイツ国防陸軍はイタリア戦線にて連合軍と睨み合っている部隊から精鋭部隊を引き抜き始め、反撃に移ろうとしていた。アイゼンハワーは初期の作戦にあったスペインまで後退して更に兵力を引き付けるか、そのまま攻勢を続けるかの決断を迫られる。


続く。

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最終更新日  2012.11.22 09:42:47
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